広井王子インタビュー 夢は歌劇に育まれ、創作は歌劇に還る ~サクラ大戦から少女歌劇団ミモザーヌへ~
サクラ大戦からミモザーヌへ
――舞台人が、映像などをやっても最後は板の上(ステージ)に戻ってくるというような話をされているのをよく耳にします。ステージ上と客席が一体となった舞台を体験すると、確かに“生”に勝るものはないなと感じます。
『サクラ大戦』から、声優がそのままステージに立つ歌謡ショウを生み出し、ミモザーヌではついに本物の少女たちによる歌劇団を作り上げたわけですが、エンターテインメントは最終的にはリアルに帰っていく、みたいなことなのでしょうか?
広井:元々は、うちのおばさんがSKD(松竹歌劇団)の戦後1期生だったりとか、母親もレビュウが大好きで、国際劇場も僕は子供の頃から楽屋にも入れましたし。そういう中でショウをいっぱい観てきて、その記憶の中で『サクラ』を作りましたからね。
だから今、ミモザーヌをやっているのは先祖返りで、僕の中では元に戻っただけの話なんですよ。母親から聞いたこととか、おばさんがやっていたことを、今度は僕がゼロから作り上げているというのは、自分の中では「母親に顔向けができる」というか……。
先日、94歳で母親が亡くなりまして。当然こういう時期なので密葬で、すぐお骨にして、いま自宅に置いてありますけれども。亡くなる前日に、もう危ないからと5分だけ会える時間をもらえたんです。
そのときに、サクラ(歌謡ショウ)を観に来てくれていたので、「観に来てくれてありがとうね」という話と、山田洋次監督が大好きだったので、「山田さんにもお母ちゃんのこと伝えてありますよ」っていう話と、「歌劇団作りましたよ」っていう話と、「本当に長い間、ありがとうございました。僕の中にあなたはあります。さようなら」って言ったら、手を振ったんだよ!
――へぇぇ~!
広井:こうやって小さく手を振ったのね。あ、この人はもう覚悟してるなと思ったら、その朝死んだんだよ。だからあれ、覚悟して「さようなら」って言って死んでいったのね。かっこいいなと思って。この人、江戸っ子だなと思って。そんなものが僕の中に入っているから、母親に対して顔向けができないことはできない。いつもちゃんと作りたい。
今回のミモザーヌも、ショウとしてちゃんと作りたい。昔ショウを観た人たちが、みんな応援してくれるような。お年寄りもね。僕より上の人たちは、キャバレーから何から観てるから、そういう人たちも来て「うわ、ショウじゃん!」って喜んでくれるようなものを作りたい。
そういうのがもうなくなっちゃったので。またそこに若い人たちが「出たい!」って言ってくれるようなものをね。実際、公演が終わった後に何人かの子供が「出たい!」って言ってたのね。
――へぇぇ~!
広井:すっごく嬉しくて。そんなのがやりたいです。
クリエイター広井王子の始まり
――元々レッドカンパニーは、お友達と一緒にデザイン会社として始められたのですか?
広井:そうそう。最初にやってたのが、刺繡のデザイン。アポロキャップの前面の刺繍とか、子供服の胸ポケットの刺繍とか。それからゴルフ場やスキー場のワッペン。そういう刺繍のデザインです。
そのうちに熱転写プリントというのがアメリカから出てきて、そのプリント用のイラストを描いたり、食レポのイラストを描いたりとかしていたら、たまたま出会いがあったんですよ。
僕がシャレで、石に絵を描いて原宿で並べてたの。でも全然売れなくて。それを「面白いね」と言ってくれたお兄ちゃんがいて、名刺をくれて、それがロッテの代理店の人だったの。
――へぇぇ~!
広井:「今度遊びにおいでよ」って言われて、遊びに行ったのが、ロッテのおまけのデザインをやっている会社で。そこで「やってみない?」って言われて、一番最初にやったのがリボンシトロン(炭酸飲料)のおまけの仕事で。
それを提出したら「面白い!」って言われて、実際に商品になって、そこから次々と。『ジョイントロボ』(1970年代中頃からシリーズ展開されたロッテの食玩)を手伝うことになって、僕らで『スーパージョイントロボ』の企画を出したらそれが通っちゃって(1981年発売)。『昆虫レスラー』(1984年発売、ロッテのチョコ)とか『深海ギョ!』(1985年発売、ロッテのカップスナック)とか、そんなのをやってみんなヒットしたの。
その頃『D&D』(ダンジョンズ&ドラゴンズ。世界初のRPG)も遊んでいて。誰かが「アメリカでこういうのが流行ってる」って言うから、「持ってこい!」って。
――ということは、プレイは英語版で?
広井:英語版で。それをうちの小林(小林正樹氏。元レッドカンパニー副社長)が訳したの。それで遊んでたんだけど、日本語版が出た時に(訳が)全然違ってて「ふざけんな!」みたいな(笑)。
――新和から発売された日本語版(1985年)も誤訳珍訳のオンパレードで、なかなか物議をかもしましたけどね。和訳を担当したORG出身のゲームデザイナーが言うのもなんですけど。
広井:『E.T.』(1982年公開、スティーヴン・スピルバーグのSF映画)の中でやってるのも『D&D』だよね。
――そうです。
広井:それで駒がさ、当時高かったんだよ。
――メタルフィギュアですね(シタデル社製、ラルパーサ社製など。キャラクターセットで3000円前後。単体で600~800円程度。大型クリーチャーは1体1500円程度の価格帯)。
広井:これをおまけで作って、俺たちが遊ぼうって話になって(笑)。
――へぇぇ~!
広井:それでみんなでデザインして、ロッテに企画を出したわけ。そしたら「面白い!」って話になったんだけど、「これ『D&D』から取ったんだろ? 権利に抵触しないか聞いてこい」って言われて。それで輸入元へ行って。
――株式会社 新和ですね。
広井:そう。新和に行って、「違いますよね?」って聞いたら「違うね」って(笑)。それで「出そう!」ってことになって。
そうなるとギミックが必要だからってことで、当時ロッテ側から温感インクの提案があって、触ると体温で色が変わる温感インクを使ったの。で、当たりは色が変わる。
――あ、そういうことだったんですね!
広井:それで、ドラマがいるよねってことから「ゲーム化しちゃおうか」みたいな。そこで箱とフィギュアとカードを使って、サイコロを転がして戦っていくゲームを作ったんだよね。『ネクロスの要塞』(1986年)を。そうしたらすごい売れて。
――日本でちょうどRPGブームが始まるタイミングの商品だったこともあって、後にゲーマーになる層も飛びつきました。
広井:その当時、テーブルトークRPGでは『スタートレックRPG』(FASA/1982年)と『DUNE 砂の惑星』(アバロンヒル/1979年)は僕がマスターだったんだよ。その2つしかできないんだ(笑)。
――へぇぇ~!
広井:いろんな人がマスターやってたからさ。たまたま空いてたのよ。『DUNE』は誰もやってなかったから「じゃあ俺がやる」って言って、一所懸命読んで。そんな時代だよね。
――私もそれこそメタルフィギュアがあまり買えなかった口で。PC(プレイヤーキャラクター)にはメタルフィギュアを使うけれど、モンスターまでは買えないので、まさしく『ネクロスの要塞』のフィギュアを使っていました。
広井:そうなんだよ! そういう狙いで作ったの、流用できるように(笑)。
――『ネクロス』には『クトゥルフ』も登場しますが、こちらも早くからチェックされていたんですか?
広井:クトゥルフはあだちさん(あだちひろし氏。1976年レッドカンパニー創業メンバー。『天外魔境』の原作者PHチャダ)って人が専門でいて、僕はどっちかというと西洋の神話には疎い。みんなに読め読めって言われて、北欧神話くらいは読みましたけど、日本神話のほうが好きですね。
――『指輪物語』なども、読まれた上で、何か違うと思われたそうですが。
広井:うん、『指輪』は違うよなと思いましたね。指輪よりももっと古い、『ガリア戦記』とかのほうが好きですね。当初はそういうものをモチーフにしてゲームを作ろうとは思いましたけどね。
でもやっぱり『ドラクエ』が流行ってきた時に、もう敵わないなと思って。ひとつのスタイルが出来ちゃったし。そういう中で自分がやれるのは、日本神話しかなかったんですね。和物はわりと得意だったし。でも最初は(企画が)通らなかったですね。「和物はダメ!」って言われました。
やっぱり円卓の騎士みたいな、剣と魔法の物語を書けって言われて、それが嫌でね。そう言われたことが嫌で。自分から書くのなら書けるんですよ。でも言われたことがすごく嫌で、頑なに時代劇をやろうとしていましたね。
もったいないですよね。日本はファンタジーの王国で、歌舞伎や文楽、能を観ても、ファンタジーの大元があるじゃないですか。古いお祭りに行けば、神楽なんて神話の世界をやっているわけですから。それが今も脈々とあるわけですよ。現実に目の前で観れるわけだし。
そういうものを観ないで、ミュージカルだけっていうのは、なんか日本人としてもったいない気がします。
僕、28歳の時にディズニープロダクションに働きに行ったんですよ。とある人に「行ってこい」って言われて、ロボット映画のプロデューサーのアシスタントみたいなことをやったんですけど。
会議で意見を言うじゃないですか。そうすると「君はどの立場で言ってるの?」って言われるんですよ。「そんなことはアメリカ人が考える。君は日本人なんだから日本人の立場でものを言え」って言われて。
立ってる場所を言われるんですよ。散々言われて「そうか、日本人は日本人の武器でしか話せないんだ」と思って。そりゃ無理ですよ。アメリカ人だって円卓の騎士の話をしたら「それは俺たちの歴史だ」ってイギリス人に言われちゃうわけだから。
そうやってみんなそれぞれの国を武器にして会議が行われているわけ。そうすると、どれだけ日本人であるかってことが価値なのよ。英語が喋れる喋れないじゃないの。価値は魂に日本人を持っているかどうか。これからもそれは続くと思う。
ゲームでは当たり前になってるけど、教会で人は復活しないからね。それは反キリスト教的なことだからね。キリスト教文化圏だと、そこはすごくセンシティブな問題で、今後も他人の国を扱う時は、そういうセンシティブな問題に踏み込むんだってことを理解しないと相当やられちゃう。「ずかずか踏み込んで来るんじゃない!」って。
逆に日本人は日本の心をしっかり持ってたほうがいいと、僕は思うけどな。これからのクリエイターの方は。
――広井さんが育った環境を見ると、歌劇によって感性が育てられた気がします。そしてクリエイターになった後も、歌劇はところどころで作品内に顔を出し、今また歌劇に還ってきています。広井さんにとって、歌劇と創作とは? なにしろ他の人だと歌劇はなかなか扱えないんですよ。わからないんだと思います。
広井:意外と小劇場の方とかが歌劇に手を出すんですけど、うまく書けてないんですよ。観てないからですよね。体感してないですね。「これじゃミュージカルだよ」って思っちゃうんですね。
だったらミュージカルにすればいい。歌劇って言う必要がない。歌劇っていうのはもうちょっといろんな音楽が入ってなきゃいけない。ラテンから何から。それにミュージカルみたいに強いストーリーがあっちゃいけない。もっとぼんやりしててくれないと。受け取り側が自由なんだから、ひとつの結末に持っていくなよって思っています。
――結末は自分で好きに決めるところとか、そこはちょっとゲームっぽいですね。
広井:そうそう、ゲームっぽいんだよ! だからレビュウのほうが好きなのかもしれない。押し付けてこないから。いい曲がかかったら「いい曲だな」と思っていればいいし、観たいところだけ観て帰る人もいるからね。ストーリーはあまり関係ないから、「MONSTER NIGHT」だけ観て帰るっていう見方でもいいんですよ。昔から「一幕見」っていう見方もあるから。
今はこんな時代だから難しいけど、お客さんがワーワー言ってる舞台がやりたいし、外へ出たら焼きそば売ってるとか、そういうのであって欲しい。その焼きそばを持って入ってきてもいいよ。みんなで食ったり飲んだりしながら見ようよと思うんだよ。あれはいけない、これはいけないって注意書きが先にあるみたいな舞台は本当に嫌い。ルールはお客さんが作っていくものだよ。
最低限のルールはあるかもしれないけど、そんなの(劇場に)入った瞬間にわかるだろうと思うし、お客さんにいちいち注意するなんて恐れ多いよね。
――そこで、掃除人になったと。
広井:そうそう(笑)。だんだん注意もしなくなる。雑談しかしない。そんなことなのよ。劇場の中に居心地のいいところはお客さんが作るしね。だから入った時に、「ああ、ここはいいお客さんがいる劇場だな」ってわかるもの。入った時にダメなところは、やっぱり客が悪い。
――最後に、広井さんの変わらぬ活躍を見られるのは、やはり少女歌劇団ミモザーヌだと思いますので、今後の展望などをお聞かせください。
広井:この先何年やれるかわからないけど、将来はミモザーヌ音楽院みたいな教育機関にしたいですよね。今はレッスンも全部無料なんですよ。毎週土日、東京のメンバーは新幹線で大阪のスタジオに来ているわけですね。でもいずれはそれを支える音楽学校みたいなものを。高校、大学の資格が取れるくらいの学院があるといいなと思います。
――それはまた、かなり大きなことをやろうとされているんですね。
広井:はい。そこまでやらないと、自分の中での歌劇が成功しないと思っています。だから今はそこを作らせて欲しいと思っています。
[取材・文/帝劇スタ夫 写真/タマキヨシノリ]
少女歌劇団ミモザーヌ 第4期生募集
「清く、明るく、麗しく」
少女歌劇団ミモザーヌの4期生募集を行います。
<募集期間>
2021年12月18日(土)10:00~2022年1月22日(土)23:59迄
<応募条件>
2021年3月31日時点で満11歳〜満17歳までの女性。経験不問。オーディション合格時点で専属契約が出来る方。
少女歌劇団ミモザーヌ公式サイト
少女歌劇団ミモザーヌ公式ツイッター
少女歌劇団ミモザーヌ公式グッズショップ
(C)少女歌劇団Mimosane.