2020年8月前半の総括(熊本)|青山吉能『みずいろPlace』#5
皆さんこんにちは、元気ですか?
わたしは元気です。
青山吉能です。
一人称ってすごく気分を左右するなと感じます。
私は普段、コラム内では『私』として、私であることにこだわりを持って皆さんと接しているのですが、思ったことを話すときに、それが私かどうかは分かりません。
『アタイ』のときもあるし、『よぴぴ』のときもありますね。
それぞれ脳は同じものを共有しているんですが、思うことは全然違っていたりします。
これが、すごく気分を左右するなと感じた理由です。
そんな自分の中でのせめぎ合いって、日常生活に多々現れてきますよね。
わたしは声優という、いわばひとの魂で生きることを生業としているので、役に向き合うとき、それは自分の中に知らない人が住んでいるということ。恐ろしい現象です。
そのため、キャラクターが感じたこととわたしが感じたことがうまく一致しないことがあります。
もちろんクライアントさん、ディレクターさんらと共に作り上げていますから、
そのときは私と役と偉い人等々で相談。
そこで初めてキャラクターというものが出来上がります。
とても難しく、たまらなく楽しい。
人生はときに、自分の中の皮肉屋さんが考えつく皮肉の限りを尽くして、いやこれはちげえだろと言ってくることもあります。
もうそんな自分はもはや他人なんだけれど、私自身が、世の中の正確さなどに囚われずに、ちゃんと生きた表現をしたいです。
逃げるために生きているわけじゃないですから。
前説でした。
最高の青春を過ごした最高の街
さて、今回のテーマは予告通り「熊本」です。
正直、
いまこのときにこのテーマで書く理由とはなんなのか、とても迷いました。
私がこうやって故郷について言及するのはいつもなにかが起こった時ばかり。
皆様からの関心も高いなか利用するかのようにそれを商売にし、それで温かいご飯を食べて。
まるで自分の幸せが多くの方の犠牲の上で成り立っているようで、自分は最低な人間なのではないか、と思ってしまうのです。
そうやって自分を追い込んでは無力さに落ち込み、そんな日々を過ごしていました。
しかし、私が振りかざしているこの正義は誰の正義なんでしょうか。
誰のためになるのでしょうか。
人は皆誰しもが生きていて、その世界の縮図の中で縮こまってまた生きている。
争って、押し付けて、幸せはそこにあるのでしょうか。
被災しているから。かわいそうだから。くまモン。
いろんな気持ちを抱く方はいらっしゃるかもしれませんが、最高の青春を過ごしてきた最高の街について、あくまでもフラットに書いていけたらと思います。