ぼくらの人生を変えたアニメ11選【2012年編】|『PSYCHO-PASS サイコパス』槙島聖護の忘れられない言葉と宜野座伸元の黒髪メガネ
価値観に影響を与えた槙島聖護の言葉たち
そのキャラクターというのが「槙島聖護」でした。知的で身体能力は高く、犯罪係数が計測されない免罪体質の持ち主、そしてCV:櫻井孝宏さんというチートキャラクターです。シビュラシステムのある社会から逸脱した潜在犯の犯罪に加担し興味を失くすと平気で見捨てるような無慈悲な性格で、『PSYCHO-PASS』1期の最大の敵として描かれます。
槙島の凶悪さを物語るのが、第11話「聖者の晩餐」。常守の目の前で親友・舩原ゆきの首を切り殺害するシーンです。精神異常者の意味でのサイコパスだなと感じる行動の数々。全く感情移入はできず、好きという感情よりも「なぜ、この人はこういう人なのだろう」という疑問ばかりが生まれます。
ここで気になってしまう時点で、主人公・狡噛慎也に負けず劣らず私は槙島に憑りつかれていたのかもしれません。槙島の発する言葉がどうにも頭に残る。彼の言葉を介して『PSYCHO-PASS』で描かれている社会、シビュラシステムの異常性を感じるようになっていきます。
槙島は本当の悪なのか?と考えれば考えるほど分からなくなる。20年生きてきて初めて、アニメのキャラクターに思考をかき乱されました。
ここからは中でも特に印象に残っているセリフを一部抜粋し、どういった点で考えさせられたのか解説していきます。
周囲に流されて自分を見失ったとき思い出す言葉
何者としても振る舞うことの出来る君自身が、結局のところは何者でもなかった。君の核となる個性は無だ、からっぽだ、君には君としての顔が無い。のっぺらぼうだからこそ、どのような仮面でもかぶることが出来たというだけだ(第5話「誰も知らないあなたの顔」より)
第4話「誰も知らないあなたの仮面」から登場する殺人犯・御堂将剛に向けられるセリフです。彼はソーシャル・ネットワーク上の人気アイドルアバターに崇拝するあまり、イメージにそぐわない言動を取ったアバターの中の人を殺害し、代わりにアバターになりすましていました。
「複数のアバターになり切れるということは、君自身には何の個性もないよ」と御堂の空虚さを否定する言葉であると同時に、シビュラシステムに左右される人々の空虚さを憐れんでいるかのようにも受け取れる言葉です。
そして、シビュラシステムのない世界で生きている私にとっても無関係な言葉ではないと感じました。人の意見に流されてしまうとき、流行りものに乗っかってしまうとき、誰かの真似をしてしまうとき…大多数が右向け右と言えば右を向いてしまうときがあります。
否定や孤独が怖いとか、失敗のリスクが怖いとか、そんな恐怖をできるだけ抱えず楽に生きていきたい。そうやってどんどん楽な方向を選べば選ぶほど、結果的に自分を見失っているのかもしれない。そんな気づきを与えてくれたのがこの言葉だったのです。
未だに魚の骨が喉に刺さったように残っています。SNSで多くの人たちの意見がこれまで以上に可視化された今、自分の意見を持っている人は果たしてどれほどいるのだろうか。信じられる何かの意見に左右されていたり、見えているものだけを信じてしまったり、そうして同じ意見ばかり並べている様を見るたび、槙島のこの言葉を思い出すのでした。
縛られた価値観の中で生きていたと思い知らされる言葉
僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ、価値を持つと思っている。だから、さまざまな人間に、秘めたる意思を問いただし、その行いを観察してきた。(省略)だが、己の意思を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、果たして価値はあるんだろうか?(第11話「聖者の晩餐」より)
常守の親友・ゆきを人質に取り、初めて常守と対峙するシーン。槙島へドミネーターを向けるも犯罪係数は100以下どころか正常値。自らの意思で本物の銃で槙島を撃ち親友を助けるのか、それともドミネーターで測定された数値すなわちシビュラシステムの意見を信じるのか。
究極の2択を迫られる中、追い打ちをかけるかのように槙島から発せられるセリフです。第5話のセリフと第11話のセリフから槙島の人の価値基準は「個性の有無」なのではないかと私は考えました。槙島はシビュラシステムのある社会で生きる人間に個性がないことを訴え続けているのです。
これは現代社会への皮肉にも捉えられます。私たちが生きる社会では、集団行動が当たり前です。そこから逸れた行動を取ると怒られたり、イジメられたり、ハブられたりします。小学生の時はみんなランドセルを背負い、中学生になると同じ制服を着て同じような髪型をする。義務教育が終了した高校でも、髪を染めるだけで休学させられる場所があります。
そして多くは大学か専門学校に進学し、いい会社へ就職することがより良い人生だ、というように20歳を過ぎるまで多くの刷り込みの中で生きています。
「個性」の教育などされていないため、さまざまな当たり前が私たちの周りには存在し、その当たり前に縛られている。それは親やそのまた親から受け継がれてきた価値観であり、結果として人の意思や行動を制限してしまっているのではないでしょうか。
シビュラシステムという存在がなくても、勝手に社会がつくり上げた価値観に縛られてしまっている私たちの価値を問う言葉として胸に突き刺さります。
自分の見えている視点が全て正しいわけではないと学んだ言葉
この社会に孤独でない人間など誰がいる、他者との繋がりが自我の基盤だった時代などとうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で、自分だけの安らぎに飼いならされているだけだ。(第21話「血の褒賞」より)
最終話の一つ前のお話で、狡噛に放つセリフです。『PSYCHO-PASS』の世界では、自身の相性の良い人間さえもシビュラシステムが選びます。自分の意思ではなくシステムの命令によって人間関係が構築されていく、それが当たり前なのがこの世界です。
そんな世界でできた人間関係で本当の意味での信頼関係を構築することは果たしてできるのでしょうか。自分自身が目で見て接して理解し合い生まれた信頼関係などなく、「シビュラシステムが言っているんだから信頼できる人だろう」と。自分さえ幸せであればいいという考えで生きてきた人たちの間には「都合の良い関係」しか生まれないかもしれないと思うのです。
槙島のようにシビュラシステムを信じず己の意思で行動を選択してきた人間からしてみれば、とても歪な光景に見えるのでしょう。都合の良い関係ほど脆く孤独なものはないのです。しかし、それがこの世界では普通にまかり通っている。そのため、狡噛は槙島に対しこのように言います、「貴様は孤独に耐えられなかっただけだ」と。果たしてそうなのでしょうか。
確かに『PSYCHO-PASS』の世界において、槙島はとても異常で異端な存在に見えますが、私たちの生きる社会に存在することができればそれほど異常で異端な存在になることはなかったと思うのです。社会の構造が変わるだけで、今ある当たり前の価値観が異常なものへガラリと変わることがあると槙島の言葉で気づかされます。
本作では槙島を「悪」として描いていますが、私たちの生きる今の時代に同じような人間がいたとしたら「正義」として多くの人の共感を得ていたかもしれない。そもそも人を殺すことはなかったかもしれません。
生まれ育った社会・環境が人格の形成やその後の行動に大きな影響をもたらす可能性があること、見る角度によって「善」と「悪」の定義が変わることを槙島の言葉から学ぶのでした。