映画『竜とそばかすの姫』レビュー|細田守監督が本当に描きたかった現代の美女と現代の野獣の真相とは?【一部ネタバレあり】
7月16日に公開された細田守監督最新作であり、スタジオ地図最新作でもある『竜とそばかすの姫』、みなさんはご覧になられたでしょうか?
美しいインターネット上の仮想世界「U」の描写や目にも止まらぬ怒涛のアクション、そして今作の物語に重要な「歌」の歌唱シーンなど、どこをとっても迫力満点でした。私はIMAXで鑑賞したのですが、どれもがよりダイナミックに感じられました。
しかし、作品を見終わった今、感動と同時に何だか切ないような、やるせないような気持ちも抱いています。
それもそのはず、細田監督の原点でもある『美女と野獣』を現代で表現した今作ですが、それは歌と踊りの素敵な世界だけではなく、現代を映す綺麗で残酷な鏡のような映画だったからです。
古典とも言える『美女と野獣』を引用して表現した“美女”と“野獣”は、ベルと竜の二人だけに留まっていないように感じるのです。
現代における美女とは何か。そして、現代における野獣とは何か。
これまでとは違う新しいネットの世界を切り抜いた『竜とそばかすの姫』は、現代の何を映しだし、我々に問いかけているのでしょうか?
※本記事には一部作品のネタバレが含まれています。本作を鑑賞後にご覧になることを推奨します。
現代の美女とは何か?
細田監督は、自身のインタビューにて現代の美女や現代の野獣が何なのかを考え、行き着いた先が『竜とそばかすの姫』になったと語っていました。
なので私もそこを意識して、本編を鑑賞。
まず美女に対して私のたどり着いた答えは、
・主人公(すず)の別の姿であるベルは、みんなが求める「現代の美女としての理想像」
・すず自身は「現代の美女としての在り方」
というものでした。ヒロインを二重に描くことによって、多方面から美女というものを描いているのだと思います。
では、すずとベルの役割とは何だったのでしょうか?
現代の美女の理想像、ベル
自分の潜在意識を引き出すという「U」の世界で、そばかすの歌姫となったベル。自作したオリジナリティ溢れる曲と歌声、完璧ではないそばかすのある見た目。
そんな彼女を世界は認め、新たな歌姫の誕生というお祭りに興じます。
彼女のどこか欠けている魅力への親近感や、歌詞から読み取れる不器用さなどに共感し、惹かれるユーザーがたくさんいました。「私だけのために歌っているような気がする」というユーザーのコメントが多く流れていたことからもそれが読み取れます。
この“親近感”や“共感性”というのが「現代の美女」に求められているものだと私は思います。
これは実際に今の若者の間で人気になっている方にも当てはまります。美人YouTuberがモーニングルーティーン動画ですっぴんを世間にさらしたり、芸能人が私達と同じような日常をSNSに投稿したりと、飾らない姿を垣間見せることこそが好まれています。
前述したように「U」の世界はログインした人間の潜在意識を顕在化させます。それはある種の現実では他人に見せることのない「ありのままの姿」なのです。
その姿を歌から感じ取ったユーザーは、ベルのことを憧れの対象として見たのではないでしょうか。
「ありのままの姿」を見せてくれる親近感や共感性。それこそが、現代の美女のあるべき姿なのかもしれません。
すずが持つ、現代の美女の在り方
飽くなき承認欲求と自己表現の欲求を持ってこそ人間ではありますが、現代はその傾向がより色濃いものになっています。
SNSやインターネットを通して、日々他人からの評価を求め、他人の評価を下し、それに一喜一憂して生きているのが、残念ながら現代の人間の姿です(もしかしたらこの記事も承認欲求かも?)。
そんな状況の中でも、すずは、その欲求に蝕まれない純粋な心を持ち、他人を本心から思うことができる稀有な存在でした。ラストでは、自分の身を顧みず一心不乱に行動します。
その心の純粋さこそが美しさなのでした。
心が清らかなのは、現代の美女の在り方とも言えますが、現代に限らず普遍的なものでもあります。
すずの心の美しさは身を挺して子どもの命を救った母からもらったものでした。
自己犠牲の結果、自分の子どもをひとりぼっちにしてしまったことは決して褒められたものではありません。その結果、すずも母の死にトラウマを抱いていました。
しかし、「何の見返りも求めずに誰かを救いたい」、という人として美しい心の在り方は母から受け継いだものだったのです。
親近感と共感性を誰かに求める私たち。それに答え、包み隠さず自身の心をさらけ出したすずこそ現代における美女だと細田監督は言っているのではないでしょうか。