2022年8月下旬の総括(不協和音)|青山吉能『みずいろPlace』#54
「不協和音」のなかにある、胸を誰かに掴み上げられているような張り詰めた緊張感と切なさと、深く呼吸する動きすらも許されないくらいの美しさに、息の根が止まるまで浸りたい。
そしてその先にある協和音に救われたい。
最近様々な音楽や自然に触れる機会があり、その度自分の芸術に対する直感がことごとく測定不可で、それはすなわち0なのではないかと疑問を持っています。
素敵なものを真正面から請け負って抱きしめたことにより、自分が変わっていってしまうことが怖いから。でも素敵でありたいという願望もあり、何も変わっていかないということもそれもそれで違う。
自分が日々いかにロボットのようにできるだけ「同じ」であるようにしてしまっているかが分かってしまい、困っています。(ロボットに失礼な発言だったかもしれない)(自分の不幸を語るとき何も引き合いに出すな)
楽しいな面白いなと思ったことも、そこで感じた気持ちも景色も、すべて「楽しかった」という言葉をあてがっただけの、過去の自分からの脅迫であると感じます。
綺麗だと思った瞬間に消えてなくなるような、芸術はそんな儚さをもモノにしているからずるい。
以前綴った「幸せは自覚した瞬間に幸せではなくなる」というものと似ている気持ちです。
未来や過去たちにこんなことを言われるのですから、ずっとなにかであり続けないといけないんだなあと気付かされました。
心のフォルダと光の世界
だいきらいだったやつのこと、いまはそうでもないなと思い返すあの感覚を、人はよく「大人になった」「落ち着いた」という日本語を当てはめてきますが、それは本当に一年に一度年齢を重ねたからなのか、だいきらいという名のフォルダが丸ごと心から消えてしまったからなのか。
わたし、最近めっきり人に対してなにか極端な感情を持つことがなくなってしまって。以前の他人事大好き人間はどこに行ってしまったのでしょうか?
お気に入りの靴踏まれて萎え、とか、たまたま入ったパン屋食べログ⭐︎3.6だったヤピー、とか、心動くにしてもその程度です。後者に関してはもう対象が人ですらない。
わたしは多分大人になったわけではなく、フォルダが次々とゴミ箱に放り込まれている気がしてならないのです。
自分の誇りである豊かな感情が、ひとつひとつ消えてしまうかもしれないことが信じられなくて、だいきらいなやつのだいきらいな理由を思い出せるだけ思い出し、言葉にして(ひとりでね)、そしたらふつふつと怒りが湧きエネルギーとなりその力で掃除機をぶん回し部屋がピカピカになりました。
まだ、まだ大丈夫だ。
だいぶ強行突破なリハビリでしたが、わたしの感覚は言語化で0からまた強くなりました。
ちなみにだいすきver.のフォルダは毎日毎日周りの色んな素敵人のおかげで満タンです。安心してください、光の世界にいますよ。
こういう人が好きだという話よりもこういう人が苦手だという話のほうが大いに盛り上がるこんな世の中くそくらえなので。