WOWOWオリジナルアニメ『火狩りの王』構成・脚本 押井守さんインタビュー|相当な難物だからこそ「誰にも任せず自分で書く」と選択した【連載3回】
WOWOWオリジナルアニメ『火狩りの王』が2023年1月14日(土)から放送・配信スタートします。日向理恵子氏による“火”をテーマにした長編ファンタジー小説をアニメ化した本作。人類最終戦争後の世界を舞台に、多くの困難に直面しながらも懸命に生きる子どもたちの姿を描いた物語です。
独創性あふれるファンタジーと深いテーマ性に多くの読者が心打たれた作品のアニメ化に期待が高まる中、アニメイトタイムズでは『火狩りの王』スタッフ・キャストのインタビュー連載をお届けします。
第3回となる今回は、構成・脚本を務めた押井守さんが登場。
原作の印象はもちろん、「TVアニメに深く関わるのはかなり久しい」という押井さんが本作で何を考え、制作にどう向き合ったのかについて語ってもらいました。
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『火狩りの王』のアニメ化はハードルが高いと思った
ーー『火狩りの王』の原作を読まれた時の印象を教えてください。
押井守(以下、押井):最近流行りの「異世界転生もの」のような“ファンタジーという名を借りた何か”ではなく、『火狩りの王』は“ちゃんとしたファンタジー”だった。しかも、中世ヨーロッパを舞台にした剣と魔法の世界という借りものの世界観ではなく、日本という自分の慣れ親しんだ世界をベースに異世界を創り上げている。なかなかしんどいことをやっているなと思いました(笑)。
私も『ガルム・ウォーズ GARM WARS』というミリタリーファンタジーを書いたことがあるんですよ。軍事的な世界観の上でファンタジーを成立させる作品を書こうと思ったら、専門用語ばかりになっちゃったわけ。だから全く売れなかったんだけど(笑)。それにしても通常の小説を書く4倍のエネルギーが必要だった。それくらいファンタジーを書くのはすごく大変なことなんです。報われない仕事だと思いますよ。
ーーなぜファンタジーを書くことはそれほど大変なのでしょうか?
押井:社会のありとあらゆるものを新しく生み出さないといけないんですよね。例えば、貨幣経済で成り立っている社会なのか、ということから考えないといけない。『指輪物語』や『デューン(砂の惑星)』などを手掛ける世界の高名なファンタジー作家の方たちが、大長編1〜2作品で生涯を終える理由がよく分かる。一つの社会を頭の中で創り上げるわけだから、想像力を使い果たしてしまうんですよ。
『指輪物語』(のJ・R・R・トールキン)はエルフ語という言葉をつくったでしょう。彼はもともと言語学者だったけど、本来新しい言語を生み出すことは学問的な世界に結びつきますよね。そして、フィクションだからこそエンターテイメントとしても成り立たせなきゃいけない。さらにファンタジーは冒険物語であり、闘争という“血”と縁が切れることのない世界でなきゃいけない。それをテキストとして実現することがどれだけ大変なことか。異世界転生もののように借り物の世界観を模したファンタジーはゲームをやったことのある人なら何の苦労もせずに書けますけどね。
ーー新しい社会を創り上げ、かつ物語を成り立たせないといけないというのは、素人でも想像にたやすい大変さですね……。
押井:そもそも本格的なファンタジー作品を読んだことのある人ってほとんどいないと思うんですよ。多くの人が想像するファンタジーは“剣と魔法の世界”というゲーム的なものだけど、それを小説として読むのもハードルが高い。本格的なファンタジーであればあるほど、読んだことのある人は少ないと思う。
だから、本作のように本格的で王道の和風ファンタジーをアニメーションとして映像化するのはめちゃくちゃハードルが高いと思いました。どう考えてもおおごとだと思って、最初に「本気でやるの? 現場が間違いなく地獄になるから、いい加減な気持ちなら辞めた方が良い」と言いましたよ。大真面目にやむにやまれぬ思いで書かれた作品だということは読んですぐ分かった。しかも夢物語ではなく、今の時代を反映し、さらに少年少女の目線で物語が進んでいく。原作自体が大変なハードルを自ら返しているわけです。なので、予算も時間もたっぷりあるなら監督をやろうと思ったけど別の仕事を抱えていたので、今回は構成と脚本、つまり“文芸”として全責任を持つことにしたんです。
脚本を請け負うのではなく、“文芸”として責任を持つ
ーー“文芸”とはどういう意味でしょうか?
押井:監督と原作者の間を繋いで、両方の要求を満たしながら、作品の落としどころを明快にしていく仕事。というのが僕の“文芸”に対する見解です。つまり構成するということです。脚本家だけを請け負うなら、発注を受けてなんとなく書いて「直してほしいなら具体的に言ってね」と割り切れる。だけど、本作は“文芸”までやらないとできないと思いました。何人かの脚本家にバラ出ししてまとめていく仕事ではない。相当な難物だからこそ、「誰にも任せず自分で書く。私にできることは本に対して責任を取ることだ」と考えました。
そもそも最近の脚本はちゃんとやっているとは思えないんだよね。「とりあえず原作通りにやっていればいい。そうすればファンも納得するし、ちょっといじるだけでファンが怒るし」と思っている。だけどそれは、“原作通り”という言葉の意味と全く異なるんだよ。原作を翻訳する作業を吹っ飛ばして直訳しているだけ。だから果てしなく伸びていって、いつまで経っても終わらない。最初から目標を決めてキチンと終わらせるべきなのに。TVシリーズを12話つくるのに、今は1〜2年かかるじゃない。1シーズン終わったら現場が疲弊しきっちゃうよ。お客様は次のシーズンが完成するまで、毎クール山ほどあるアニメを見て待てばいいけど、果てしなく時間がかかる中で現場のモチベーションはどうなっちゃうんだと。
ーー終わりが見えないことにモチベーションを保ち続けるのは難しい、と。
押井:「嫌いなことじゃなければ仕事として淡々とやれば良い」という考え方もあるだろうけど、私は昔の人間なので。「請け負ったからやるしかない」と思うような仕事の仕方を私はしたくない。「作品をつくった」と思いたいよ。そこまで考えて初めてワガママを言う根拠と責任が持てる。「ダメだったら俺を叩け」という覚悟が持てる。それで叩かれたこともあるわけだけど……(笑)。
とはいえ、“文芸”も脚本を仕上げたところで監督に渡して基本的には終わる。そのあとは介入するわけじゃない。そうは思いつつも、そんなに割り切れないし気になるよ。別の監督のために脚本を書く仕事は随分したけど、制作中には毎回「ちゃんとできているかな」と考えるし、上がってきたものを見て「こんなのになっちゃった……」と思う繰り返し。だから最近は、脚本とコンテを両方やる仕事じゃないと脚本は書かないと決めていました。そうはいっても今回は諸事情があって構成と脚本のみでやらざるを得なかった。
だからせめて昔の仲間であり、人となりも仕事の仕方も分かっている監督にしてほしいとお願いしたんです。ただの“文芸”がそんなお願いしてもいいのかとも思ったけど、未知の人間と仕事はしたくなかった。そしたら逆に探してほしいと頼まれたので「西村(純二)くんがいいんじゃない?」と。