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キングダム 嬴政(えいせい)とは? 始皇帝の夢と挑戦を探求!

『キングダム』嬴政(えい・せい)とは? これであなたも政のプロフィールが丸わかり! +さらに深く、始皇帝となる政の夢と挑戦を探求しました。

『キングダム』は、中国の戦国時代末期(紀元前245年頃から)を舞台にした、週刊ヤングジャンプで連載中の原泰久先生の漫画作品です。主人公は、中華統一をめざす秦王政(嬴政(えい・せい))と、大将軍を目指す信(しん)。彼らを取り巻くたくさんのキャラクターも魅力的です。
  
ここでは、嬴政のプロフィールをまとめてご紹介。加えて、彼の夢と挑戦とはどのようなものなのか、史実も参考にしながら、政についてじっくり考察していきます。

 

目次

『キングダム』嬴政のキャラクタープロフィール

 
 

政は秦国の31代目の王。13歳で即位します。後の始皇帝です。
 
誕生日は紀元前259年2月。アニメで政を演じていらっしゃるのは、福山潤さん。映画では吉沢亮さんです。

嬴政の人物像の特徴と略歴

性格は常に冷静、感情が表情に出ることはありません。王たる自覚をもって自身を律して、成長してきたことがわかります。加えて、元々の素質も光るものがあります。頭脳明晰で、事態や人物を俯瞰してとらえることができるという、年齢以上の大人っぽさを兼ね備えています。また、武芸の腕も立ち、物語が進むにつれてカリスマ性も磨かれていきます。
 
このような堂々たる秦王政ですが、その生まれと幼少期には、他の王にはない特徴があります。
 
生まれた土地は、趙の首都 邯鄲(かんたん)。父は子楚(しそ、後の荘襄王 そうじょうおう、在位3年)、母は趙姫(後の太后)です。趙に人質となっていた父が、大商人の呂不韋(りょふい、後に秦の丞相)の妾だった「邯鄲の宝石」趙姫を目染めて生まれたのが政なのです。
 
なんとか秦に戻り、その後秦王となった政ですが、15歳の時に弟の成蟜(せいきょう)が反乱を起こし、咸陽(かんよう、秦の首都、王座があるところ)を追われてしまいます。命を狙われる政は、黒卑村(こくひむら)に隠れます。ここで信と出会い、王座奪還を目指します。信は下僕、身分はまったく異なりますが二人は友となり、まだ見ぬ中華の姿に向けて共に前進していくのです。
 
そう、キングダムの物語はここから始まるのです。ここまでの幼少期のエピソードは、物語途中の回想として挿入される形で読者に明かされます。
 
王座を奪還した政のその後は、漫画・アニメ・映画で描かれているのですが、ここではものすごく簡単に、アニメ第4シーズンまでの事柄を点で拾っておきましょう。
 
・15歳 王の座にあるが権力は呂不韋にある→徐々に味方を増やしていく
・16歳 趙の侵攻に対応。戦場に赴く前の王騎から昭王からの遺言を伝えられる。
244年王騎死す。
・18歳 呂不韋と太后が手を組み不義のうわさを流すが、心を崩すことなく対抗。
・19歳 向が妊娠。翌年、娘の麗が誕生。函谷関攻防戦。
蕞(さい)がおとされそうになるも自ら出陣して士気を高める
・22歳 加冠の儀(成人の儀)。呂不韋と天下について舌戦。加冠の儀の途中、嫪アイの乱
→呂不韋失脚、太后は幽閉状態に。
 
 

嬴政の生涯と彼の目指した夢

 
 
政の生涯を追いかけるには、3つの段階にわけるとわかりやすいのではないでしょうか。
1つ目は、暗い幼年期を経て秦国の王として国内での権力を手中に収めていく過程。2つ目は、権力を握った後の中華統一の過程。3つ目は、中華の頂点 始皇帝となった後。(ここでは、アニメ進行に合わせて、1つ目と2つ目の部分を追っています)
 
そんな政が目指すものは、500年続く乱世を終わらせるための中華全土統一です。
今のわたしたちからするとそう突飛なものとは思いませんが、当時の常識からすると夢物語であり理解できない、いわば狂気に近い考えだったようです。なにしろ、中華・中国という概念は、一国を指す言葉ではなかったのですから。
 
ここからは、政の生涯で鍵になる部分をクローズアップしていきます。
 

嬴政の母 太后(先の趙姫)とその影響

先にも記しましたが、政の幼少期は暗いものです。趙で罵倒と暴力にさらされます。唯一の拠り所となるべきは母であるはずですが、彼女自身も呪いの言葉を吐かれ、おそらく慰み者にもされ余裕はありません。そのストレスを政にぶつけています。
 
こうした環境に置かれた政は心が壊れ、感情と五感が閉じられてしまいます。何も感じないのです。温かさも、冷たさも、においも、痛みさえも。
 
そして、政9歳。父が秦の太子となったのを機に、秦の使者により政の趙脱出がはかられます。趙の役人に追われる中、命懸けで政を守り脱出させてくれたのは、闇商人の紫夏(しか)。彼女は、政を抱きしめ愛を注ぎ、政本来の光を呼び起こします。すると、政に感情と感覚が戻ったのです。
 
紫夏の存在は、政のこの後の人生の指針となる大きなものとなります。
 
彼女のおかげで、光を取り戻した政に対して、母太后の心はすさんだまま。彼女は、愛していた呂不韋に裏切られたこと、趙でのひどい生活への恨みによって、心は闇の中です。政に対しても、親としての情がまったくありません。
 
秦で王の母として豪奢な生活を送るようになっても、その心は満たされず。息子に会うこともないのです。
 
ある時、太后は、呂不韋と久しぶりに会し、政治的に手を組むことに。体の関係も復するのです。しかし、相手は呂不韋です。王の母と関係しているということがバレれば、大罪人になることはわかっています。そこで、呂不韋は、政にバレないうちに太后に嫪アイという国一番の巨根の男をあてがい、自分は身をひきます。

この呂不韋と太后の関係を偶然にも見聞きしてしまった宮女がいます。それが向(こう)です。彼女は口封じに殺されそうになりますが、血の滴るままにどうにか宮所にたどりつき、死の境をさまよいながらも、政に事の次第と御身の危険を知らせるのです。
 

嬴政の妻と子の存在

政にとって向はもともとお気に入りの宮女でしたが(お気に入りの宮女とはいっても読書をする時の傍らに置くだけのようでしたが)、上記のことで一気に距離が縮まったのでしょう。二人の間には女の子が生まれます。
 
守るものができた政の心には、これまでに感じることのできなかった安らぎと、慈しみの思いが生まれたのではないでしょうか。政治の場での固い表情が、向と娘の前では柔らかくなるのがわかります。
 
 

実在した嬴政(始皇帝)との違い

 
 
さて、ここまで政の足跡をたどってきましたが、気になるのは史実の始皇帝との違いです。この作品にはまったことを機に中国史を勉強した方も多いはず。
  
始皇帝。この名を学校などで知った時、民衆を酷使した非情な暴君というイメージとともに覚えた方は、とても多いような気がします。このイメージは始皇帝を扱った小説や映像作品によってさらに広まっていますが、その大もとは司馬遷の『史記』です。そして今も、『史記』が正しい史実として現代に定着しているように思われます。
  
『キングダム』では良いイメージ、『史記』では悪いイメージ。これは、やはり、作者の原先生が作品の都合上、始皇帝となる政の性質を変えたと考えるべきなのでしょうか。
 

歴史としての始皇帝

『史記』は、前漢 武帝の時代に司馬遷が編纂した約53万字の紀伝体(年代順ではなく人物や国ごとに出来事をまとめた形式)の歴史書です。武帝の時代とは、前141年から 前87年。つまり、秦が滅んでから100年ほどのちに書かれたということになります。中身を読んでみると、例えばこんな記述があります。
 
〈秦はついに武力をもって六国を滅ぼし、中国を統一して外に四夷をはらい、死者が乱麻のように出た〉史記 書 天官書第五 より
 
このように秦の天下統一事業は、司馬遷の生きた漢の時代には、悪しきこととしてとらえられていたようなのです。
 
しかし、現代のわたしたちがこうした歴史書を読む時には少し注意が必要です。
 
『史記』に嘘が書かれているということではありません。『史記』は当時の学識を曲げることなく書かれた、大変貴重な資料であることに間違いはありません。ただ、『史記』の善悪判断が100パーセントではないということをいいたいのです。
  
ところで、21世紀に入ってから、『史記』以外にも秦の歴史をうかがえる資料が発見されているのをご存知でしょうか。2002年中国湖南省で3万6千の木簡、1974年の兵馬俑の発見、75年の約1千2百の竹簡の発見です。現在、文書類の解読が進められているそうですが、秦と始皇帝を当時の国内ではどう見ていたのかがわかるのではないかと期待されています。
 

政と歴史上の始皇帝の関連性

さて、キングダムの政です。原先生は『史書』をしっかり読み、これをリスペクトしたうえで歴史の隙間を埋めるように物語を展開させているように感じます。もちろん、少年漫画として成立させるために、実在の武将を女性としたり、架空の人物を加えたりはしているのですが、決して過去に生きた人間を侮辱するような描き方はしていません。
 
これはあくまでも個人的な意見になりますが、これらを踏まえると、『キングダム』の政は決して都合のよいファンタジーではないと考えたくなるのです。実際の始皇帝 秦王政も、作品と近しい夢、具体的にいうとこれまで誰も想像だにしなかった中華統一、初の中央集権国家を築こうとしたのですから。
 
現代でたとえるなら、世界を統一して、度量衡と貨幣を統一(関税や為替相場がなくなりますね)、身分や人種に構わず(格差や人種差別がマイルドになる?)有能な者は登用する、といったところではないでしょうか。そして、全国を地域の有力者を排して中央から派遣された者が管理する、その管理のやり方は気分や都合ではなく「法」による統制、つまりごまかしのきかない絶対的な法治体制になる、ということだと思います。
 

政と始皇帝の違い

とはいえ、もちろんすべてが同じではありません。
 
ひとつだけ挙げてみましょう。
政は民一人ひとりの安寧を思う人物ですが、実際の始皇帝はそこまで考えていた人物とは思えないことです。
 
〈始皇の人となりは、天性剛慢無情で、事を専断する。諸侯から身を起こして天下をあわせ、意を遂げて欲をほしいままにすると、昔から自分ほどすぐれた者はないと自惚(うぬぼ)れ、もっぱら刑罰を事として人を罪している〉史記 本紀 始皇本紀第六 より
 
『史記』の善悪判断が100パーセントではないと述べておきながら、『史記』を引っ張ってきましたが、こちらも、当時は始皇帝も含めて人類全体が今とは違う価値観で生きていたということを念頭に置きつつ理解しておきたいです。
 
また、当然ですが、作品と史実のエピソードは、異なるところも多々あります。
 
例えば、作品冒頭に弟の成蟜が反乱を起こしていますが、史実ではこの時点では反乱はありません。史実での成蟜の反乱は政が21歳の時、加冠の儀の一年前に起きた「屯留での反乱」になります。(作品では、この時の反乱は呂不韋の策略で、成蟜は無実にもかかわらず反乱の首謀者として殺されます)
 

政の目指した中華統一「人の本質は光だ」

ここまで何度かその名を出しましたが、「加冠の儀」。これは政を語る上で重要です。呂不韋と天下についての論をぶつけあうシーンです。
 
呂不韋は、天下を動かすのは金だといいます。現在の資本主義ですね。


しかし、政はこのような反論をするのです。それでは人は暗闇から抜け出すことはできない、人の本質は光だと。紫夏の無常の愛、加えて向と子どもとの安らぎ、信という友の存在、これらが政にこの名台詞をいわせるに至ったように思われます。
  

結局、政は善人なのか悪人なのか

作中での政は、人の本質を光(勝手な解釈ですが、神から与えられたそれぞれの善なる魂といった感じ?)ととらえる温かい人間です。実際の始皇帝はもっと冷たい感じが今のところどうしても拭えませんので、実際よりはやはり善く描かれているのでしょう。戦争をして犠牲者をたくさん出しているところは同じですが。
 
とはいえ、人物の評価は、判断する人の国ごと立場ごと時代ごとに違います。冷静に考えてみれば、善だけの人間も、悪だけの人間もいないでしょう。人間はもっと多面的で複雑です。政を見る目も、始皇帝を見る目も、もっと多角的であってもいいのではないでしょうか。
 
『キングダム』は、既存の歴史の見方に風穴を空けてくれる、豊かな知識に裏打ちされた力強い作品。このように見ることもできるのではないでしょうか。

<次ページ:アニメと実写映画で演じているのは?>
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