アスランの妄想やラストに込められた意味とは?ネタバレ全開で全力で『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』について考察したい
様々なキャラクターの「愛」が勝負を分けた
見直して改めて感じたのが、本作がいろんな意味でも「愛」の映画だったということ。今回はキラとラクスの恋愛ドラマがメインになる情報は公開前から明かされていて、オルフェにキラが「ラクスの愛だ!」と啖呵を切るシーンは、実にラブストーリー的だとも感じていたんですが、「愛」がキーになっているのはキラとラクスの間だけじゃないんですよね。
そもそもこのキラの台詞は、性能で劣るストライクフリーダム弐式でオルフェとシュラを両方相手にしながら、ファウンデーションに対抗するための武器として「ラクスの愛」を叫ぶという流れでした。最初に聞いた時は「何をいきなり言いだすんだ」とちょっと笑いかけてしまったんですが、その後の戦いはこの時のキラの言葉通り、「愛」が勝敗を分けた結果になっているんですよね。
それが分かりやすいのがアスランとシュラの最後の戦いです。ブラックナイトでは最強格と思われるシュラに対して、アスランはカガリのエッチな姿の妄想をしながら、リモート操縦を任せるというシュラの心を読む能力の裏をついた戦法をとって勝利しています。
この時、シュラはアスランに対して「破廉恥な!」と動揺を見せていましたが、これはシュラが戦いを神聖なものとして崇めていたのに加えて、何よりも「愛を知らなかった」ことが大きかったと思うんです。
それまではシュラの方が優勢なようでしたし、アスランはシュラ相手に正攻法で勝つのは難しいと、一回目の戦いの中で分析していたんでしょう。ただ仮に心を読む能力が使えなかったとしてもシュラは相当に強いでしょうし、その戦いの中でいきなりリモート操作を任せるのは、自分の命を完全に託してもいいと思えるような相手でなければできないはず。
いわばシュラは、命を預けられるほどの信頼関係で結ばれたアスランとカガリの愛の深さの前に負けたという構図になっていて、一見ギャグシーンっぽく演出しながら、実は作品の一番大事なテーマを盛り込んで表現しているという、かなり高度なことをやっているんですよね。シリアスな空気の中に唐突に放り込まれるので、ちょっとふざけすぎじゃないかと感じたファンもいると思うんですが、おそらくかなり考えて作られたシーンだということは伝えておきたいです。
また、「愛」については、デスティニーガンダムSpec2で獅子奮迅の活躍をしたシンも同じだと思っていて、それが象徴されるのが、アコードの精神干渉から『SEED DESTINY』でシンと心を通わせた、ステラ・ルーシェが守るシーンです。
ステラのシンへの感情は、恋愛的な対称とは少し違うと想っているのですが、きっとその想いは大切な人への「愛」の一種だと思うんですよね。ここまでいくと考えすぎかもしれませんが、シュラと同じように「愛」を知らなかったアコードたちは、ステラのシンへの「愛」が理解できなかったからこそ、「闇」という言葉を使って表現したんのかもしれないとも思っています。
ファウンデーション側で、唯一その「愛」を抱いてしまったのがイングリッドです。イングリッドはオルフェに想いを寄せていましたが。デスティニープランが選ぶオルフェと結ばれるべき相手はラクスであり、デスティニープランによる社会を実現させれば、イングリッドの思いが成就することはなくなります。
もしイングリッドが迷いがなければ、ラクスはキラの前で殺されていたかもしれません。キラとラクスの間だけじゃなく、「愛」はオルフェ側の敗北の要因にもなっているんですよね。
「ナチュラルとかコーディネーターの対立の話がどこかに行った」と感じた人もいるんじゃないかと思うんですが、そもそも今回の映画では最終的な対立構造が、ナチュラルとコーディネーターではなく「デスティニープランに賛成か反対か」という、『SEED DESTINY』での構造をそのまま引き継いだものへと変わってきます。
これは「愛を知っている者」と「愛を知らない者」との戦いとも言えて、新キャラクターであるアグネスは、男を自分を着飾るステータスとしか見ておらず、「愛を知らない」一人なんですよね。だから映画のテーマとしてアグネスがコンパスを裏切ることになるのは必然であり、そのアグネスがシンとルナマリアの「愛」の前に負けて、ルナマリアの友情的な「愛」で少し救われるというのも、とてもよく出来た構図になっているなと思います。