『キングダム』No.1の色気、桓騎(かんき)とは? 虐殺しまくりのひどい奴なのに、どうしても惹かれてしまう……その理由とは?
史実での桓騎は?
桓騎は、実在は確認できるものの、生年や家族は謎。しかも、突然表れて、突然消えてしまうのです。歴史書の中の桓騎
まずは、代表的な史書『史記』の中の桓騎を拾ってみましょう。
『史記』は、前漢 武帝の時代に司馬遷が編纂した約53万字の紀伝体(年代順ではなく人物や国ごとに出来事をまとめた形式)の歴史書です。武帝の時代とは、前141年から 前87年。つまり、秦が滅んでから100年ほどのちに書かれたものです。
司馬遷の生きた前漢の時代には、すでに、桓騎は名前だけが伝わっているだけで、戦果以外は謎の人物だったのでしょうか?
『史記』「始皇本紀」に、
〈十年、相国の呂不韋(りょふい)が嫪毒の事件に連坐して職を免ぜられた。桓齮(かんき)が将軍となった〉
と、突然桓騎が登場します。桓騎はだれだれの子で云々といった人物略歴は、一切ありません。
そして、
〈十四年、桓齮は趙軍を平陽に攻め、宜安(河北・藁城)を取って、その軍を破り、その将軍を殺し、平陽・武城(山西・平魯か)を平定した〉
とあり、これを最後に「始皇本紀」からは姿を消します。(引用元は、司馬遷『史記Ⅰ 本紀』「始皇本紀第六」、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995)
その後は、『史記』の本紀ではなく列伝に、
〈趙は、李牧を大将軍として秦の軍を宜安(河北・藁城の西南)に撃って破り、秦将桓齮を敗走させた〉
とあり、これが最後の記録となっています。(引用元は、司馬遷『史記6 列伝二』「廉頗藺相如列伝第二十一」、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995)
「敗走させた」? では、桓騎は生きているのか? と思いきや、『史記』とほぼ同時代の『戦国策』には、“李牧が桓騎を殺した”「李牧數破走秦軍,殺秦將桓齮」(引用元は、Webサイト「數位經典」『戰國策』「卷二十一 趙策四」 https://www.chineseclassic.com/content/1200)と、書かれています。どちらが正しいのかはわかりません。おそらく、永遠にわからないのではないでしょうか。
いずれにしても、この後、歴史上に桓騎の名が表れることはないですし、子孫の話もありません。
謎の桓騎ですが、人物略歴が一切記載されていないことから想像するに、名家の生まれではないのでしょう。とにかく強かったという印象だけを残して、歴史の闇に消えていきます。