『キングダム』龐煖(ほうけん)とは? 王騎や信のゆくてに立ちはだかる“武神”。その勝敗は?
孤独な求道者と、皆の思いを背負う将
龐煖と信の強さの違いはどこにあるのでしょうか。二人とも強いことに間違いはないのに、なぜ軍配は信に上がったのでしょう?
この疑問を解くために、それぞれの強さの特徴を見ていきたいと思います。
龐煖の強さ=孤独な求道者
先に挙げた、エピソード①②③はどれも龐煖にとって、自信のある戦いでした。
龐煖が戦に出る理由は、李牧によると、
「“武神”への道の極みに達したと悟り、その力を天に示すため」
とのこと。
敗北という結果は、おのれがまだ極みに達していなかったゆえだと思い、山に籠もり直し修業という行動に繋がります。
そして、今度こそ極みに達したと思った龐煖ですが、結果は先に述べたとおりです。
李牧は、その敗北の理由を次のように分析しています。
「龐煖は未熟だったわけではなく、十七年前(王騎との因縁ができた時)もすでに人の武の極みに達していて、なお王騎に敗れたのではないか」
「武の極み」なのに、実際の戦場では最強ではないという矛盾。これには実は、龐煖自身も気付いていたようです。しかし、その矛盾を見て見ぬふりをして、自身の生き方を貫いたのです。幼い頃から信じていた生き方を変えるのは、アイデンティティの作り直しにもなりますし、なかなか難しいですよね。
李牧は、この「矛盾」が龐煖の敗因だと言うのです。
他の人とのかかわりなしに最強になるという、龐煖の生き方の軸そのものに、破綻があったということなのでしょうか。確かに、武力は人と接してはじめて現実の世界に現れるもの。戦う理由が、自分のためだと、最後の最後にせったときに弱いのでは? とも思います。
信や王騎の強さ=他者との絆の強さ
信が龐煖と戦うのは、王騎のかたきを討つため。王騎が彼と戦ったのは、摎のかたきを討つため。ですが、その動機に含まれる感情は、個人的な恨みだけはありません。
信の強さについても李牧は分析しており、
「個で武の結晶となった龐煖とは真逆…」「関わる人間達の思いを紡(つむ)いで束にして戦う力です」
と言っています。
「関わる人間達」というのは、秦の仲間たち、これまで戦場で討ち取ってきた敵軍の兵たち、すべての人たちのこと。自分のためだけではなく、皆の思いを背負っているからこそ力が出るということです。
個人より、人との良い繋がりが、良い結果を生む。
現在、社会人の方なら、「同意」と大きく頷くのではないでしょうか。学生の方なら、部活動や学校行事などで経験されているかもしれません。
実在の龐煖
さて、ここまで『キングダム』の龐煖を見てきましたが、今度は史実の龐煖を見ていきましょう。
もちろん、作品中の龐煖のように、“変な方向に強い一匹狼”といった姿ではありませんが、実際に龐煖という人物が生きていたと思うと歴史のロマンを感じます。
さて、実際の龐煖ですが、趙を勝利に導く将でありながら、諸国の王に弁舌をふるったり、著作を残したりと、学問にも秀でていたようです。残念ながら、龐煖の著作は、歴史の流れの中で散逸してしまい、今に残ってはいません。
龐煖の名が出てくる史書は、『鶡冠子』(かつかんし)という諸子百家の誰かが書いた、道教中心の雑多な思想書です。この書物、はっきりした作者名や成立年代はわかっていませんが、一説には龐煖の師匠が書いたものともされています。
※道教:戦国時代末期に起こった神仙道の宗教化ともいうべきもので、仙人となって不死を得ることを窮極の目的とする(『日本国語大辞典)より)
『鶡冠子』によると、龐煖は、劇辛(げきしん、趙出身だが燕につかえた人。『キングダム』24巻にも登場!)と親しく、趙の武霊王、恵文王、孝成王、悼襄王につかえたとされています。ずいぶんと長生きだったのですね。
道家としての龐煖、悼襄王との会話
龐煖は、悼襄王(とうじょうおう、趙の王、在位は紀元前244年から紀元前236年)のもとで将軍に抜擢されます。
当時の悼襄王への龐煖の発言が、下記のように残っています。
〈不病病,治之無名,使之無形,至功之成,其下謂之自然〉
(引用元:諸子百家 中國哲學書電子化計劃 https://ctext.org/zh)
直訳すれば、「(本当の名医というのは)病がないところに病を見、症状の無いうちに治す。形の無いものを使って、最も効果的に。その大元を自然と言う」となりますが、本当の意味は、「本当に有能な家臣は、その名が聞こえにくいが大事にすべきであり、自然に無理なく組織が回っていることが良い、ピンチになってからでは遅い」といった解釈になるそうです。
「自然」という言葉が出てくるあたり、道教の思想家としての龐煖が浮かび上がりますね。
以下余談ですが、東アジア世界に広く見られる儒教は、目上の者を敬えなど、人への心のあり方を説いたものです。これに対して道教は、自分が世界と共にどう存在するかに力点を置いた思想のようです。不老長寿の薬や、陰と陽、気、風水などにも繋がるので、道教の正確な定義は、専門家の間でも定まっていません。
現代的な解釈にはなりますが、儒教と比べると、「肩の力を抜け」「自然」という点が、わかりやすい特徴かと思います。