夏アニメ『義妹生活』・上野壮大監督に聞く制作秘話・裏話・見どころ
第3話「反射 と 修正」
――第3話を制作する上で、意識したところやこだわりのポイントをお聞かせください。
上野壮大監督:第3話は特別な話数でした。
日記パートはもちろんのこと、日々を重ねれば重ねるほどすり合わせが出来ずにズレていくこと、もしくは無自覚な愛情によって少しずつ拡がっていく痛みのようなものまで、作中でふたりがそうしたように映像上は時に隠しながら、あの夜まで積み上げていく……そうした構成だったこともあり、2話も含めて、とても難易度の高いものでした。
また、3話までは世界観を提示する第1章でもある、ということも念頭にありました。
悠太と沙季が、世界とどう接しているのか(or どう距離を取っているのか)、どう向き合っているのか(or いないのか)、何に心地よさを感じ、何に居心地の悪さを感じるのか、といったことたちの整理、ですね。
作中では、ふたりが自覚的なことに関しては、言葉で。無自覚なことに関しては、言葉以外のもので表現しています。例えば第1話で、ふたりが「期待しない」ことを契約した場所は、人が行き交う世界からぽっかり浮かんだ(and 光の流れからは弾かれた)暗い踊り場でした。第2話で、ふたりが初めて学校で話をした場所もテニスコートの隅、木陰の中でした。一方で、光の中にいる真綾は眩しいくらい輝いていました。
第1話、ふたりが初めてすり合わせをした沙季の部屋も電気が点いていなかったですね。沙季が見つめた外の景色は嘘みたいに午後の光で白んでいます。
そもそも共同生活が始まる家の中ですら、天井が一般的な部屋よりも高く広く、家の中にいるのに孤立が際立ちます。まるで他人同士が一緒に暮らしているように。
原作を読んで自分が感じたことは、ふたりはこの世界に対してすごく居心地が悪いんだろうな、ということでした。言葉にすると、陳腐化しますし、これ以上自分の言葉で語るのも野暮なので、制作する中で何度も何度も繰り返し読んだ文章を添えておきます。(音楽のCITOCAさんへ最初に送ったラブレターにも、この文章を添えました)
「曇りの日の方が物がよく見える。セザンヌはこう言ったらしいが、たしかに、だれでもこの意見に頷けるような体験を幾度かはもっているはずである。晴れた日の光の中では目に入らなかった物が、曇りや雨の翳った光の中で見えてくるのだ。あるいは、もっと暗い、暗がりの中へ置いた時に、その物の姿がはじめて見えたということがある。そういった時、翳った光というのは、弱くなった光であるというより、物を浮かびあがらせる力であるように思えるものだ。」(太田省吾 著『動詞の陰翳』より)
――橋の下で「反射」について話すシーンでは、実際に声が反響しているように聞こえますが、本作における、音のこだわりについて教えてください。
上野壮大監督:音に関しては、音響チームの途方も無いこだわりが積み重なっております……。
自分が話すのもおこがましいし、ここで語り尽くせるような量ではありませんが…、「実在感のある音」でありながら「心情が載っている音」であったことが、何より素晴らしかったと思っています。
音楽発注の時に音響監督の小沼(則義)さんがこだわった「感情」と「心情」の違いから始まり、言語化の難しい発注も多い中、「悠太と沙季が無自覚な言葉」や映像だけでは届かない深い深いところまで寄り添ってくださった音楽の数々。小沼さんのコンテの読み解き方が自分は大好きで信頼しきっているのですが、それを体現した音楽ラインも見事でした。音楽の付け方で、映像で開けきったと思っていた扉を、まだこっちの扉も開けれるよ、と教えてくれるような。台詞の響かせ方も本当に、お芝居を大事にしてくれていて、自分が演じたわけじゃないのに自分のことのように嬉しかったです。
音響効果もまた心情が載っかっていたと思います。
一歩ずつ違う音色の足音からは、戸惑いや恐れ、感情だけでなく悠太や沙季たち、それぞれの人となりまで聞こえました。第1話のお風呂から出る時の音や温度を悩む音からは、悠太の優しさと無自覚な愛情がこぼれて…。第2話で聞こえる、帰ってきた沙季が悠太の部屋にやってくるまでの音からは、昨晩できなかった「ただいま」と「おかえり」への想いが滲みます。
そういえば、第1話のファーストカットのビル風の音と悠太に踊り場で「安心したよ」と言われて吹く夜風の音も同じ風の音ではないように聞こえます。
音響効果の山田(香織)さんの、無機的なものに心情を、命を吹き込んでいくお仕事に、アニメーションってそうだったよねって、何度も感動しました。
今回の音響チームと一緒にお仕事できたことは、本当に幸運でした。
音響現場をいっつも暖かく柔らかい、この作品の空気感にしてくれていた音響制作の穂積(千愛)さん、繊細なお芝居を丁寧に録ってくださった、アフレコの合間で自分のメンタルケアまでしてくれた録音の長野(大輝)さん、それぞれ録音助手として現場を支えてくれた小松(怜司)さん、沼田(陽由里)さん(2人とも周りがよく見えていて、いつも現場は円滑でした)。
また、今回はダビングやアフレコのために、他の作品ではお願いしないような無理を他のセクションにお願いしました。
ギリギリまで調整を重ねた制作部はもちろんのこと、少しでも豊かな音になるように、と作画、色彩、背景、撮影、3D、編集、全てのセクションが各フィルムを押し上げて準備してくれました。
本当にありがとうございました。
3話のダビングの時に受けた感動は、これまでの自分にとっても、これからの自分にとっても、大切なもので、ずっとこれを抱えて作っていけたらと思っています。
――第3話では、原作小説の巻末にある「沙季の日記」を映像に落とし込む演出がなされています。「日記パート」について、初期の構想や、制作時のこだわりをお聞かせください。
上野壮大監督:少し長くなってしまいますが、当時作っていた「日記処理」に関する覚書を以下に転載します。
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日記処理について(6月22日)
[映像の主観性]
沙季の日記映像なので沙季が見た映像の羅列…とも考えられなくはないのですが、沙季は視覚だけでもって過ごしてきた訳ではありません。視覚のみに依存して沙季のPOV(注:沙季視点描写のこと)の様に表現し続けるより(使用しない訳ではありません)は、カメラが引いて(ただし本編の様に広く引けないとも思っています)沙季も映像の中に映り込んできた方が、沙季が感じてきた何かを沙季に映り込ませて撮ることができると考えています。
[映像の縦横比]
沙季、あまり視野の広い子ではない様な印象です。また、空間の実在感を表現する上で縦構図(奥行きを表現する構図のこと)が多くなる想定です。そして、どこか欠落した、というイメージ。他にも理由を書きだすとキリがないですが、総合して、縦横比は4:3を選択します。
[映像内の台詞]
音のラインは、沙季のN(日記を朗読する声)、音楽(ともすると歌)、という2ラインがあるので、映像内の台詞は極力字幕で静かに表現したいです。字幕も入れずに、というのも場合によっては有りかなとは思います。
[映像自体の揺れ]
揺らし過ぎることは避けたいですが、絶えず静かに揺れている印象を求めたいです。止まろうとしてゆっくりゆっくり気づかないくらいに静かに浮かんでいる感じでしょうか。フレームの外にも確かに世界があるというオープンフレーム的な考えに近いかもしれません。
[フォーカスの揺らぎ]
フォーカスが見たいものに絶えず合い続けることを不自然と捉えます。フォーカスを揺らそうとして揺らすのは論外ですが、見ようとしてるのに合わないフォーカスのショットを混ぜ込みたいです。器用に、上手には撮れない、というのが大事なのかもしれません。沙季の日々がそうであるように。
[手ざわりのある映像]
映像にフィルム特有のノイズを入れたいです。ざらざらしていて、けれど心地よい、どこかあたたかい質感を目指したいです。沙季が日記の表紙やクローゼットの裏のシール痕に触れて、何かを受け取ったように。
[ジャンプショット]
動きやカメラワークをジャンプさせたいです。非連続、欠落によって、その零してしまった時間、映らない、けれど確かに存在した時間、記憶を強調したいです。父親を一度失った、沙季自身がそうであるように。
[光]
本編同様に柔らかな光、アレ、モレも拾いながら、乱反射、レンズに傷や汚れがついていた時の豊かな光の拡散、半透明なものを通した色づいた光、色づいた物質が拡散反射するバウンスライト、照明のフォールオフ、影の中の光。薄曇りの日の光は1秒たりとも同じ光がないように、動く雲の厚さ、形の違いによって、絶えず変化する光。木漏れ日もそうですが、時間を感じるような、何かフレームの外を感じるような光を探したいです。沙季は確かにそこでその時間、生きていたんだ、と証明するかのように。
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以上です。
これらは、映像作家ジョナス・メカスが生み出した「日記映画」の手法を参考に考えています。そのメカスの言葉です。
「…しかし一度人生を注がれ、生命の光に当たったものは、いつまでもそれを内に保ち、輝きを放ちつづける。それは本であれ、映画であれ、友人たちとのおしゃべりであれ、花びらのひとひらであれ、変わりはない。」
沙季が過ごした日々をどれも、どれも愛おしく表現できたらと思っています。