『キングダム』李牧(りぼく)と昌平君(しょうへいくん)、2人はどちらが有能軍師!? 経歴と特徴をまとめました! 史実にもびっくり!
史実での李牧と昌平君
さて、ここまで『キングダム』の李牧と昌平君を見てきましたが、史実での2人のことも調べてみましょう。
戦国時代のことを知ろうと思ったら、まず頼るべきは『史記』。『史記』は、前漢 武帝の時代に司馬遷が編纂した約53万字の紀伝体(年代順ではなく人物や国ごとに出来事をまとめた形式)ものです。武帝の時代というのは、前141年から前87年。つまり、秦が滅んでから100年ほどのちに書かれた歴史書になります。
また、他の史料にもいくつか頼れるものがあるので、参考にしていきます。
実際の李牧
『史記』の中で、李牧は比較的多く登場。『キングダム』どおり! と嬉しくなるところがいくつもあります。以下はその一例です。
〈趙は、李牧を大将軍として秦の軍を宜安(河北・藁城の西南)に撃って破り、秦将桓騎を敗走させた〉
引用元:司馬遷『史記6 列伝二』筑摩書房、1995
他には、匈奴との戦いの功績、趙王の怒りをかったこと、司馬尚(しばしょう、西晋の帝祖 司馬懿の先祖といわれる)と共に秦の王翦(おうせん)と戦ったこと、などです。
また、中国で長い間、子どもに文字を教える時に使われてきた教科書『千字文』(せんじもん、梁の武帝が作らせたもの、後510年頃?)の中にも、以下の内容があります。
〈白起・王翦・廉頗・李牧などの名将は、軍隊を指揮すると、最高に巧みであった〉
引用元:『千字文』岩波書店、1997
教科書に載っているくらいの名将だった、少なくとも後世の人々にそう理解されていたということですから、国民皆が知っている人気者なのでしょう。
ただし、史実では、『キングダム』との違いも様々あります。例えば、実際の李牧は、合従軍の立役者ではないですし、王騎を討った「馬陽(ばよう)の戦い」は、その戦い自体が存在しないそうです。
実際の昌平君
昌平君も、李牧よりその数は少ないですが『史記』に登場しています。一例を見てみましょう。
〈荊(楚のこと)の将項燕が昌平君を立てて荊王とし、江南で秦にそむいた〉
引用元:司馬遷『史記1 本紀』筑摩書房、1995 /(括弧)の中は筆者の補記
「そむいた」とは、ショックですね。
ところがです。20世紀、2000年の時を経て地下からみつかった、秦代の行政文書群『睡虎地秦簡(すいこちしんかん)』には、“楚の王に立てられて秦にそむいたのは昌文君(しょうぶんくん、政の側近、昌平君の叔父とされる)で、昌平君はその前年に死んでいる”と書いてあるのです。
これは『睡虎地秦簡』中の喜(き)さん(秦に仕えた一役人、地元の名士だったと思われるが本史料の発見がなければその名が表に出ることは永遠になかっただろう人物)の個人記録中にある内容で、その解釈については研究者の間でも意見が分かれているようです。これは書き誤りだとする方、『史記』の方が誤りだとする方、どちらが正しいのかはわかりません。
「昌平君は2000年間濡れ衣を着せられていた男?」となったらおもしろいのですが、そう簡単なことでもなさそうです。なぜなら、『睡虎地秦簡』の方が正しいとしても、その文章が、“定説とは別の対秦計画に巻き込まれたから”のような書き方をされているからです。
まあ、楚がこの年に秦に滅ぼされたのは確実と思われますので、どちらにせよ、楚王血縁者はここで全員葬られていたような気はします。
もちろん、『キングダム』でどう描かれるのかは、原先生次第。読者が気にして楽しみにする部分の一つですね!
また、「呂氏四柱」という設定は、原先生のオリジナルです。