『キングダム』蒙恬(もうてん)とは? ピンクでひらひら + 戦場では気高い名将 !? 普段と戦場とのギャップが作中No.1の人気キャラクター!
『キングダム』は、中国 戦国時代末期(紀元前245年頃から)を舞台にした、週刊ヤングジャンプ連載中の原泰久先生の漫画作品です。主人公は、中華統一をめざす秦(しん)王 嬴 政(えいせい、後の始皇帝)と、大将軍を目指す信(しん、後に李信)の二人。
彼らを取り巻くたくさんのキャラクターたちも魅力的です。
ここでは、人気の登場人物 蒙恬(もうてん)の人物像をまとめつつ、その魅力を皆さんと一緒に楽しみたいと思います。
また、史実の蒙恬の記録についても調べます。
皆さんの歴史妄想や、キャラクター理解にお役に立てましたら幸いです。
目次
『キングダム』蒙恬とは
蒙恬は『キングダム』において、主人公 信の友人であり同年代のライバルです。
もうひとりの同年代ライバルである王賁(おうほん)と3人で切磋琢磨し、ときには協力しながら、大将軍を目指し成長していく姿が描かれます。
秦の「大将軍」を目指して
蒙恬の紹介の前に、秦の「将軍」について簡単に整理しておきます。
物語開始時には圧倒的「大将軍」の王騎(おうき)がいます。しかし、彼は宿命のライバルとの戦いで致命傷を負い、最期に信に自分の矛を託して絶命します。
次世代となる王騎亡き後の「大将軍」は、古参の張唐(ちょうとう)、蒙恬の父 蒙武(もうぶ)の2人。「将軍」は、王賁の父 王翦(おうせん)、野党から成り上がった桓騎(かんき)の2人です。
蒙恬や信たち若手は、彼らに並ぶ「大将軍」になることができるのでしょうか? もしくは、蒙武らの次世代の「大将軍」とか? 今後の展開が楽しみですね。
ピンクでひらひら
さて、蒙恬です。
蒙恬の、まずはその体型と服装に目を引かれた読者の方は、多いのではないでしょうか。
初登場時の体型は細身で、顔も美人(!?) そして、服の色はピンクで、裾は蝶のようにひらひらです。筋骨隆々のキャラクター満載の『キングダム』の中では、珍しい存在感ですよね。
成長していくにつれ、たくましい体型になっていきますが、それでも大男にはならないように思われます。
普段はチャラい(!?)
蒙恬の性格を見てみましょう。
彼の性格は、飄々とした明るさが特徴です。
蒙恬は、祖父が蒙驁(もうごう)、父が蒙武という武の名門の家の長男ですが、家をつぐプレッシャーや厳しい教育の影響はどこへやら。飄々とした柔らかさがあります。チャラいように見えるふしもあるかもしれません。
付け加えておきますと、王賁も名門の生まれです。蒙恬と王賁は、ともに名家の長男という立場にありながら、まったく違う性格です。陽気な蒙恬に対して、いつもぶすっとした表情の王賁。この二人の比較も、色々と考えさせられる読みどころです。
若手3人が「千人将」に昇格した頃の会話を見てみましょう。3人がそれぞれ隊を率いて戦地に向かう道中、たまたま出会った時の会話です。戦闘の合間の、ほっとするようなギャグシーンとなります。
(蒙恬と信が出会う、昇進が嬉しい2人がふざけ楽しむ)
蒙恬:よー 信 千人将
信 :よー 蒙恬 千人将
2人:ギャハハハ
尾平(信の隊の兵):何やってんだあいつら
(王賁が追いつく)
王賁:浮かれすぎだ お前達は (真面目な顔)
蒙恬:おー これはこれは 王賁 千人将
信 :よー 王賁 千人将〜
王賁:やかましい (口をへの字にして)
3人の性格の違いがよくわかりますよね。
戦場では気高い名将に+軍師教育履修済み
普段は飄々としている蒙恬ですが、戦場ではいつもの朗らかな表情とはうって変わって、凛とした武将の顔になります。
普段とのギャップが印象的なのですが、賢く冷静に、そして責任をもって隊を率います。蒙恬が率いるのは「楽華隊(がくかたい)」。旗印は「楽」です。
また、蒙恬は、昌平君(しょうへいくん、秦のトップ軍師)から軍師になるための教育を受けていて、軍師学校“卒業生第一号”です。ちなみに、昌平君から「才能の底が見えない」という評価を得て、通常より早いペースで卒業するという秀才ぶりです。
蒙恬は、こうした教育をうけた人物ですから、戦場で軍全体の動きを頭に入れながら臨機応変に隊を動かすことができる名将です。剣の腕も確かで、蒙家三代で最も軍才があるといわれています。
中央で士官する道もあったのでしょうが、蒙恬は戦場で血と泥にまみれる道を選んだということなのでしょう。
隊の率い方は、気高く冷静。とはいえ、ここぞという時には檄で隊の士気を上げることも。
また、自らおとりのような役を引き受けて、他の隊と協力して戦全体を勝利に導いたりもしています。
ネタバレ注意。蒙恬の歩みまとめ
ここで、蒙恬の出世街道を、まとめておきましょう。
※注意:現時点(2024年11月現在)でのまとめとなりますので、ネタバレが嫌な方は、このページは飛ばしてください。
・初登場時は千人将に値する実力を持つという噂があったが、祖父の蒙驁の意思により「三百人将」に
・山陽攻略編で「臨時千人将」、戦後に正式に論功行賞として「千人将」に
・函谷関の戦いでは騰軍に所属し「臨時五千将」に。戦後「二千人将」に
・咸陽の乱の功績で「四千人将」に
・鄴の戦いで「五千人将」となり、他の将が率いる軍と連合で出陣
・朱海平原戦で秦軍左翼大将として「臨時の将軍」に。凱旋後の論功行賞で「将軍」に
この後の「宜安戦」では負傷をしていますが、この時も冷静に、他軍と協力して作戦を成功させています。
ちなみに、信と王賁もほぼ同じペースでの出世です。