
時代を超えて交差する「よい芸」と“古典”を現代に表現する意義──アニメ『ワールド イズ ダンシング』監督・黒柳トシマサさん×アニメーションプロデューサー・溝口侃さん対談インタビュー
2026年7月2日(木)より、TOKYO MXほか全国9局にて放送中のTVアニメ『ワールド イズ ダンシング』。
南朝と北朝二つの朝廷の争いが続く動乱の時代。後に世阿弥と呼ばれるようになる少年・鬼夜叉(CV:花守ゆみり)の“あったかもしれない”ダンシングストーリーがついに開演となりました。
アニメイトタイムズでは、本作の監督を務める黒柳トシマサさんと企画発起人であるアニメーションプロデューサー・溝口侃さんの対談インタビューを実施。本作への愛と情熱を語っていただきました。
室町時代のトップクリエイターである世阿弥が生み出すコンテンポラリーな舞。ときに“古典”とも呼ばれる鮮烈な文化を、現代のトップクリエイターたちはどのように見つめているのでしょうか。
能≒アニメーション?
──原作漫画『ワールド イズ ダンシング』において、特に心を掴まれたポイントをお聞かせください。
アニメーションプロデューサー・溝口侃さん(以下、溝口):これまでも能楽を題材にした漫画はありましたが、能を古典として解釈する作品が多い印象でした。でもこの漫画は能を、当時は猿楽と表されたものですが、それを「やる」漫画です。しかも、伝統として「凝り固まったもの」ではなく、これから新たに能を生み出していく瞬間を描いています。非常に強く感銘を受けました。自分たちがアニメを作っている今と通じるものがあると思ったのが、ファーストインプレッションです。
監督・黒柳トシマサさん(以下、黒柳):そんな溝口さんが「アニメを一緒に作りませんか」と原作を持って来てくださいました。読む中で気がついたのですが『風姿花伝』「初心忘るべからず」といった能に精通していなくても知っているような書物や考え方が、自分たちの中にもぼんやりとあるんだなと。能は人が大人になっていく、生活している中でそばにあるものなんだなと感じました。
──アニメの公式サイト「キーワード」ページの「能(能楽)」に掲載されている「現代の能」というフレーズにハッとさせられました。おかしな言い方ですが、現代にも生きた能があるんだ、と。
黒柳:僕も能を古典だと思っていたのですが、室町時代においてはコンテンポラリーなものだったと描かれていて。観阿弥、世阿弥、犬王ら登場キャラクターは、その後600年以上続く能の世界をまさに作っている最中の人たちですよね。そんな人たちの考え方は、僕たちがアニメーションを作っている過程と似ているんじゃないだろうかと。
今後、アニメーションという文化がどれぐらい続くのかわからないですが、僕たちは世阿弥らと同じくその入口に立っているんじゃないかなと思っています。能とアニメに似ているものを感じたんです。
──「コンテンポラリー」といえば、溝口プロデューサーが一橋観世会で津村禮次郎先生から受けたお言葉があったとか。
溝口:そうですね。「能楽は室町時代のコンテンポラリーダンスなんだよ」という言葉をいただいたのですが、そのときに僕が受けた衝撃を作中の鬼夜叉も感じているだろうなと。
漫画を読んだときにも先生の言葉がフラッシュバックしたんですよね。自分が学生時代に能楽と出会ったときの体験みたいなもの……彼(鬼夜叉)の場合は能楽ではなく「白拍子の舞」でそれを体験したのかなって。
そんな体験もあって、素直に「この作品をやりたいな」「アニメ化したいな」と強く思いました。
──「白拍子の舞」を見た鬼夜叉は「よい」という言葉を口にしますが、お二人にとって「よい芸」「よいもの」とはどのようなものでしょうか。
黒柳:例えばアニメーターだと「うまい」と言われるときと「よい絵だね」と言われるときがあります。この場合の「うまい」はきっと、アニメーションにおける絵の綺麗さなどの「上手」という意味合いだと思うんです。
一方「よい絵だね」と言われるときは、描いたキャラクターがキャラ表とは似ていないこともある。佇まいの雰囲気が良い、のような感覚に近いところもあるような気がしています。「この人が描いたからこの絵になっている」んだと思うんです。それが「よい絵」なんだろうなと。
本当に「うまい」人たちは「うまい」かつ「よい絵」を描く。その境地の一歩手前にいる人は「うまい」と「よい」が分かれているような気がしています。
どちらかというと僕は「よい絵だね」と言われたくてアニメーターをやってきました。だから、絵が似ていなくて怒られたりするんですけど(笑)。
溝口:(笑)。
黒柳:絵コンテなどもパッと見ただけではどこがどう違うかわからないのですが、ちゃんと読み込んでいくと「あ、このコンテなんか良いな」と伝わってきたりするものなんです。コンテの中によいものがあって、それをよいとキャッチする自分自身がある。そのふたつがあることで成立するものかなと思ったりします。
──ともに本作を作り上げた溝口プロデューサーが感じる、黒柳監督の創る「よいもの」とはどのようなものでしょうか?
溝口:アニメは集団作業なので、キャラクターだったら作画に合わせないといけないなど、何かに合わせなければいけないときがあります。集団の中でやっていけるように、という意識があると思うんです。その中でも黒柳さんが描いてくださる絵やコンテは、黒柳さんの人柄がもろに出ているんですね。
タイトルによっては「原作に合わせないといけない」という意識が強く出すぎてしまうこともあると思うのですが、本作の場合は原作通りなのに黒柳さんの人柄を感じるというか。「黒柳さんは原作をこのように捉えているんだな」という雰囲気が出ていて「黒柳さんのフィルムだな」と思えることがよさでありユニークさだと思います。
各々がどのように受け止めるかは別として、ユニークさが出ていて、それが強烈によいなと思っています。単純にアニメの工程に懐柔されきらないようにしてくれたのかなと。
──黒柳監督が作ったからこそのアニメであると。
溝口:そうですね。実際にアニメをご覧いただいたらわかるとおり、オリジナルキャラクターがいきなり出てきます。あの要素も黒柳さんの発案でした。物語の根本から黒柳さんの息吹を付け足していただいているので、そこも含めて自分としてはよいものです。こういう付け足し方があるんだなと勉強にもなりました。
──黒柳監督がご自身の“息吹”を加えた意図というと?
黒柳:原作が、とにかく本当によかったんです。テーマ性や描き方……そのすべてが漫画として素晴らしいと、三原(和人)先生の原作を読んだ時に思いました。
そんな素晴らしいものをアニメーションにする。ただ漫画の絵を動かす作り方とは別に「形を崩さず漫画をさらにより大きく広く多くの人たちに伝える方法」はないだろうかという考えが最初からありました。
アニメの描き方によって、伝わるべきところはより伝わるようにして、同時にわかりにくいところは、そのままわかりにくくしたいという気持ちもあって(笑)。そのために、より複雑にしてしまったところもあるし、簡素化した部分もありました。物語の真ん中にいる鬼夜叉が、どのように見えるかを考えないといけませんから。
原作の状態だと、どんどん鬼夜叉の周りにいるキャラクターが流れて行く印象を受けていました。どういうことかというと、最初に「白拍子と出会いました」「次に増次郎たちと出会いました」「次は犬王と出会いました」とテンポ良く進んでいくんですね。犬王と出会っている間に、増次郎という存在は過去の存在になっていたと感じたので「鬼夜叉の周りにはいつも人が留まっている」様子を描きたいなと。
オリジナルキャラクターとして創り出した石也は、いつも鬼夜叉を客観的に、そばで見続けている。彼が居ることで、鬼夜叉が一か所に留まることができるんじゃないかなと思いました。
──鬼夜叉の人生の話であることをより明確にするために。
黒柳:そうですね。誰かがふいに、どこかに行ってしまうこともあまりないだろうと(笑)。その人はずっと、鬼夜叉の側にはいるんだろうという状況がよりわかりやすくなるといいなと思いました。
































