2021年3月前半の総括(映画)|青山吉能『みずいろPlace』#19
人はみんな幸せになれるようにできているんですよ
それは、長崎俊一監督の「西の魔女が死んだ」(2008)です。
主要人物は、「まい」と「おばあちゃん」。母に連れられておばあちゃんの家にやってきたまいと、山に暮らす西の魔女・おばあちゃん。そこからともに暮らす様を主な軸として描かれている映画です。(ざっくり)
この映画は公開当時に母と観にいったことを覚えています。その頃はまだ転転転結少女だったわたしだったので、この映画の不透明ななにかを理解することができませんでしたが、大きくなった今はだいぶ受け取り方が変わりました。
あのときよりもやっぱりお芝居というものを注視するようになりました。俳優さんのお芝居というものは畑が違うからこそ、面白くとても勉強になるのです。
まずふたりが出会ってすぐ、サチ・パーカーさん演じるどこか浮世離れした「おばあちゃん」と俗世間的であまりにも等身大な「まい」との、あまりにも相対的なお芝居に驚きました。どちらもすごく自然なのにギャップがあるという、まさに「ナチュラルな芝居とはなにか」を考えさせられます。
もちろん映像美もとんでもないのです。おばあちゃんとの暮らしはどこを切り取っても絵画のような、しかし都会に戻れば痛いほどの親近感がどっと苦しさを感じさせる色合い。
そして物語が進み二人の時間がゆっくりと過ぎる中、二人にだんだんと変化が訪れます。おばあちゃんはおばあちゃんで、まいとの生活を重ねるごとにそれまでになかった感情というものに揺さぶられ、まいの方はおばあちゃんとの生活でゆっくりと紡ぎあげてられてきた独特な雰囲気が現れはじめます。序盤、おばあちゃんとまいとの間で感じたギャップと称した違和感は、後半に再会する父親とまいとの間で感じた違和感に通じるものがありました。
お芝居って0か100かを表現するものでなく、誰かに心を動かされたり、裏腹だったり、この突き抜けない演技というものが魅力的だったりもするんだなあと、改めて思いました。それがきっと、幼い頃に感じた「不透明さ」だったんだなと。
わたしは声を担当するにあたって、「できるだけ自然に」ということを考えながら役を作ります。しかしその自然って何に対する自然なんだろう?わたしが感じたままに表現したものが自然?それもそうかもしれません。
「西の魔女が死んだ」との出会いは、わたしに自然というのは役の数だけあると教えてくれました。この作品のこのおばあちゃんとしてのナチュラルさ、まいとしてのナチュラルさ、それは全く形の違うものです。
まだわたしは24年しか生きていないし、残念ながらわたしの人生しか歩んでいません。だから、こうやってさまざまな映像を鑑賞してそれぞれの人生を体感させてもらって、学んで、ようやく演じることができるのかなと思います。
最近では「〜の呼吸」という言葉が流行っていますが、まさに呼吸というのはその人を表す最初の音。だからわたしはまず呼吸というものを大事にしていきたいです。
な〜んてイキって言っておりますが、これはとても難しくまったく習得できていません!炭治郎はすごい!日々勉強です。
「西の魔女が死んだ」、梨木香歩先生の原作小説もとても面白いのでぜひ読んでみてくださいね。
それでは今回はこの辺りで終わります。
さようなら。
青山吉能
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編集担当:川野優希