2021年9月後半の総括(おじいちゃん・おばあちゃん)|青山吉能『みずいろPlace』#32
皆さんこんにちは、元気ですか?
わたしは元気です。
青山吉能です。
わたしは、擬音語にとても弱いという習性があります。
「とろ〜りチーズたっぷりのカルボナーラ」なんて、もう「とろ〜」の時点で買い物カゴにいれてしまうんです。最近のコンビニはそういった誘惑ネーミングがとても上手だなあという印象です。
でも「つぶつぶたらこのたらこスパゲティ」、お前は違うぞ。
先日、確かクリーム系のアイシャドウを探していた時だったと記憶しているのですが、そのなにかのテクスチャーを表す言葉で「ねっちり」という文字列をみかけました。
ね っ ち り
なんだこりゃ。人生で出会ったことのない音でした。でもきっと、温かくも冷たくもない、生っぽいなにかがぎゅっと詰まっているんだなということが汲み取れます。気になる。買う。使う。
凄い。
紛れもない「ねっちり」。最早ねっちり以外で表せられる言葉が存在しないほどのねっちりさでした。名は体を表すと言いましょうか、このアイシャドウの現存こそが「ねっちり」の存在意義だったのではないかと思いました。
あとこれは擬音語とは少し違うのですが、「こっくりとした」という形容詞も、なんだか心がざわざわします。これは色合いや味などが重く深みのあるときに使われているものなのですが、正しい使い方なのかはわかりません。
試しに検索してみたら、サジェストに「こっくりとした 嫌い」と出てきました。ふふふ
そんなこんなで外界も秋めいてきて、ねっちりとこっくりとしてきています。
今年は徐々に移り目を感じていくといったよりも、9月がやってきた途端に俺は秋だ秋だ秋だーーーッと主張してきました。令和の世にこの強引さ・・・ふーん、おもしれー奴。
このふーん構文めちゃくちゃ好きなんですが多用しすぎて全然おもしれー女じゃなくなってきていて辛いです。
9月20日は「敬老の日」です
今回のテーマは、きたる敬老の日にかこつけて「おじいちゃん・おばあちゃん」のお話をしていきたいと思います。
わたしの父と母はもうすでに、それぞれがわたしの父と母であるということから新しいアビリティを手にし「おじいちゃん」と「おばあちゃん」となっています。
もう2年か。
あれだけ厳格で存在感の大きかった父が、いつまでも変わらないと思っていたはずなのに会うたびにまるまるとした雰囲気になっていて、すっかりおじいちゃんに。
母は母でジムに通ったり新しい趣味を見つけたりちゃきちゃき感に拍車がかかり、元気そうで安心します。
そして、私にとってのおじいちゃんとおばあちゃんは、「ひいおじいちゃん」、「ひいおばあちゃん」になりました。(いつまでも甥目線)(心は2歳児)
本当は祖父、祖母と書くべきなのですが、愛を込めて「おじいちゃん・おばあちゃん」と表記させていただいております。
わたしには、おばあちゃんが二人、そしてわたしが生まれたときにはすでに父方の祖父は亡くなっていましたのでおじいちゃんが一人おります。