劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』幾原邦彦監督、木村良平さんインタビュー|『輪るピングドラム』はストレートに「愛」なんです【連載8回】
「(木村)昴を感じながら晶馬を演じました」
ーーここからは後編のお話を伺っていきます。前編と比較すると後編はさらに新規シーンが増えているように感じました。新録する上で印象に残っていることはありますか?
木村:最後にちょっとだけアクションがあるんですよ。あのシーンが全然分からなくて……(笑)。台本を読んでも分からない、リハV(リハーサルVTR)を見ても分からない。なので、現場に行って聞こうと思ったら、幾原さんに「おおよそ(木村)昴を感じれば大丈夫」と言われて。すでに昴は少年・冠葉を録り終えていたのと、基本的に少年・晶馬と冠葉は二人で行動するので、「昴を感じながら演じればいいんだ!」と昴の芝居を聞きながら演じました。
ちなみにそのシーンを理解したのは、後編の完パケを見てからでしたね。映像と芝居がキレイにはまっていて安心しましたけど、もしかしたら芝居に合わせて映像をいじってくれたのかもしれないとも思いました(笑)。
幾原:僕も、良平くんに「これに(先に収録した昴に)芝居を合わせるんですか?」とイラッとさせてしまうかもと思いました(笑)。
木村:あはは(笑)。
でも後編の完パケを見たら、そんなに考察とかしない僕でも以前より『ピングドラム』の輪郭が見えてきたかもと思えて、ちょっと嬉しかったです。テレビシリーズのアフレコをしていた時は、僕らキャストも視聴者さんと同じ気持ちなんですよ。刺激的な出来事がとにかく多い作品だから、なんとなくは分かっていても全てを把握はしきれなくて。だけど、劇場版を見たら「このキャラクターはこういうテーマに向けてこんな思いを持っていたんだよ」と丁寧に置かれている印象がありました。特に後編ですごく感じたんですよね。幾原さんの意図はわからないけど、僕はそう受け取ることができて「なんか優しい……! ありがとう!」と思いました。
幾原:見やすくするためにキャラクターの気持ちの流れは意識していたので、それが理解できればなんとなくでも見られるんじゃないかなと思いますね。
木村:極端な話、テレビシリーズの1本20数分ってそこまでキャラクターを理解していなくても勢いだけで見れてしまうと思うんですよね。でも映画は長い分、キャラクターの目的意識が明確になった方が観客はついて行きやすいと思う。僕はこの映画ですごく感じました。
ーー特に後編は2時間半近くありますしね。アニメの総集編でこの長さは珍しいなと。
幾原:やばいよね(笑)。
木村:特に後編の後半は切れないシーンも多いですしね。物語の根幹に関わるシーンばかりなので。
ーーそこに新規シーンも入るわけですから、この長さになるのも頷けます。
幾原:そこもかなりスタッフ間でどうすべきかはやり取りしましたね。テレビシリーズと物語は同じでも、劇場版ではどこに・何に重きを置くのか、というのはなかなか決まらず。簡単には決まらなかった。結果的には「高倉兄弟が何を見つけるか」に重きを置きましたけど。そこにエネルギーが集まるようにしようとなりました。
2人が考える「このキャラクター同士の関係性が好き」
ーー前編はキャラクター個人を掘り下げていましたが、後編はキャラクター同士の関係性を掘り下げているように感じました。そこにちなみ、2人が考える「このキャラクター同士の関係性が好き」というのをお伺いしたいです。
木村:「多蕗と(時籠)ゆり(CV:能登麻美子)」ですかね。この二人はお互いが一番ではなかったけど、お互いに一緒にいることを選んだじゃないですか。そこに妥協があったのかもしれないし、僕には彼らの本心は分からない。でも「自分で選択している」というのを感じるんですよ。
二人は大人だからこそ「お互いじゃなくてもいい」と分かっているけど、「自分が歩んできた道の先にこの人がいる」とお互いを選んだ。晶馬の場合は「兄妹だけ」しか見えていないんですよね。そうではない、多蕗とゆりの関係性が好きですね。
幾原:僕は「冠葉と晶馬と陽毬」「(荻野目)桃果(CV:豊崎愛生)とゆり」が好きですね。まず晶馬は兄弟妹を繋ぐ存在なんですよ。冠葉と陽毬は風船のように飛んでいっちゃうような感じがするのですが、晶馬の優しさが兄弟妹を繋ぎとめている。その関係性が僕は好きなんです。
桃果とゆりに関しては、そもそも僕はゆりのようにダメージを持っているキャラクターが好きで。多蕗もですが親や家族との関係でダメージを持っている。フィクションではありがちな話だけど、そういう人がある程度大きくなってから才能を開花させる話が好きなんですよね。そしてその過程の中に、桃果というちょっと天使のようなキャラクターが存在しているのも好き。これは“夢”として好きですね。
ーー夢……?
幾原:何かを成し遂げようとする時というのは必ずしも楽しいことばかりではなく、何か障害があったり屈辱にまみれていたりする中で成し遂げると思うんですよ。それですごく後ろ暗くなったり曲がったりしてしまう人も多いと思います。その過程で「ある種類の友達と巡り会えたから救われた」というのが夢として語れるわけです。
例えば、ゆりは桃果と出会わなくても女優として開花するような能力を持った人だったのかもしれないけど、出会わなければ人としてもっと歪んでしまう可能性もあった。それが出会いによって少し変わった。そういう「夢としてあったらいいよね」を持っているから、二人の関係性が好きですね。