【内海賢二 彼が生きた時代:連載第2回】野村道子さんインタビュー|私は、内海さんは声優の5本の指に絶対に入っていると思っています
5本の指に入る声優を目指して
ーー現在、内海さんが作り上げた「賢プロダクション」の相談役を務めていらっしゃいますが、設立当時のことを振り返っていただけますか?
野村:彼がプロダクションを作ることになったから、私も経営なんかを手伝えないかと思って、その頃にお世話になっていた「青二プロダクション」から移ることになったの。
お金の借りかたもわからなかったから本当に大変で、レギュラーだった『ドラえもん』と『サザエさん』が終わったら声優を辞めてプロダクション一本にしようと思ってたんだけど、これがなかなか終わらなくてね。結局、声優をやりながら、プロダクションの経営と子育てをすることになって、大変な時期が何年か続くことになったの。
声優を引退することも考えたんだけど、内海さんが「引退したらまたやりたくなったときに戻ってこれなくなるから、休業ということにしたらどうか」と言われて。新しい仕事はやらないということで、今日までやってくることができました。
大変なことは変わらなかったけど、内海さんがそれ以上に協力してくれてね。ひとりで10人分ぐらいは稼いできてくれて、お金の心配はあまりしなくてよくなったの。
だから私も、内海さんのためになる努力ならなんでもしてあげたかった。目標は、声優として5本の指に入る人にすること。奥さんとしてはあまりよくしてあげられなかったから。パートナーとして、内海賢二を絶対のブランドにしたいと思ったの。
ーー野村さんと内海さん、二人三脚の声優道だったんですね。苦労はありましたか?
野村:最初から楽だったことはないけど、驚いてしまったのはやっぱり病気のこと。
最初は50代の半ばだった。調子が悪いことが続いて、芝居から帰ってきて疲れたって言うことが増えて。そういうのって珍しかったから。病院に行って、一日かけて検査したら「ステージ4です」と言われたの。本人もピンときてないみたいで、「癌なの?」って感じだった。
詳しく再検査することになって、紹介状を持って病院に行ったら、ポリープができてるから手術しましょうってことになったんだけど。癌っていうのは治せないから、取るしかないんですよね。それからは3年に1回、できたら取るの繰り返しで。それも何日かの入院で済んじゃうから助かってはいたの。しばらくしたら再発することも珍しくなって、8年ぐらいは病院に行くこともなくて安心していたんだけど。
ーーなにか、大きく体調を崩してしまうことが?
野村:野沢那智さんのお通夜のときに様子がおかしくて。お手洗いに行くのを何度も繰り返してたの。流石に変だって思ったんだけど、「子供じゃないんだから、ちゃんと病院に行きなさい」と言ってもはぐらかされてしまって。
結局1ヶ月もしてから病院に行ったんだけど、帰ってくるなり「入院して手術することになったから」なんて言うの。相談もしないでひとりで決めてきちゃったのよ。
それで、その手術があまり上手にいかなくてね、歩けなくなっちゃったの。私もびっくりしたけど、内海さんもかなり落ち込んでしまって。退院の日が決まっているのも歩けるようにならないし。リハビリだって頑張ってたんだけどね。
ーーお仕事にも影響が出てしまいそうな様子でしたか?
野村:そんなときに羽佐間道夫さんが会いに来てくれたの。内海さんは足が動かないことを本当に悔しそうに伝えていたんだけど、羽佐間さんが「なんだ、声はまったく変わってないじゃん」「声が出るんだったら仕事しろよ」と言ってくれて。それに彼は救われたんじゃないかしら。仕事ができるとわかった途端、表情も生き生きとしてきてね。
それからは病院から仕事に行ったりとしていました。私も彼も、羽佐間さんには本当に感謝しているの。羽佐間さんのおかげで彼は最期まで仕事をしていられたんだから。
ーー最期のときまで内海さんは声優であり続けたんですね。
野村:覚悟はしていたけど、その瞬間がくることは信じていなかった。それから2年半、体のあっちことに癌が転移して満身創痍だった。だけど、すごく生命力のある人でね。手術をすれば生還してくるから、そのときも帰ってくるんだと思ってた。
結局、最期まで気取ってるし、気を使っちゃう人だったのね。歩くのだって辛かったはずなのに、手術をするので病院に行っても、車からは歩いていこうとするのよ。ある日なんて、エレベーターが壊れてて、あとで気がついてそのことを聞いたら「歩いて登った」なんて言うのよ。
そうやってかっこつけながら、最期の10日前まで仕事をしていた。断ることも多くなってたけど、「どうしても内海さんに」という替えのきかない仕事も結構あったから。どうするのか訊くと「やる」と必ず答えるんですよ。その日にあわせて歩く練習もするし、食べるものも自分で管理して万全の準備をしてた。
だから、あのときも帰ってくると思ってたの。最後に入院することになったときは、仕事の途中で意識が飛んじゃって、台詞が言えなくなってしまったらしくて。病院に着いても、「俺、仕事に行かなきゃ」とずっと言っていたんですよ。
最後に入院する頃には癌が骨にまで転移していて、痛みで寝られないからずっと背中を擦ってあげていたの。痛み止めも打っていたから意識もまばらだったんだけど、先生は「声は聞こえているはずです」とおっしゃってくれて。だから耳元でね、いろんなお話をしたの。
ーー最期に内海さんとはどのようなお話をされたのですか?
野村: 私はね、妻としてはあまり面倒をみてあげられなかったから。結婚してからずっとそう。お互いに仕事で忙しかったこともあるけど、私も彼も自分のことは自分でやろうという性格だったから。彼が病気になってからも、「頑張りなさいよ」と言うことしかできなかったの。だから、もっと優しくしてあげればよかったのかなって思うところもあって。夫婦になってよかったって、あまり自信を持てないところもあったんですよ。
だけどね、かないみかがお見舞いに来て、「内海さん、道子さんのこと愛してる?」と聞いてくれたことがあって。そうしたら内海さん、質問が終わらないうちに「愛してるよ」と大きな声で言ったの。それが一生の宝になったなと思って。
だから最期に耳元で、「賢ちゃん、いい人生だったね。私もおかげでいい人生だったよ」と言ったの。そうしたら彼ね、しっかりと頷いてくれたんですよ。
ーー満足のいく人生を送れたと思っていたからこその頷きだったのでしょうね。
野村:そうだといいなって思う。声優としても、彼はたくさんの代表作を残してきた。『北斗の拳』のラオウとか、『アラレちゃん』の千兵衛さんとか。そういうのを残せるのって凄いことだと思うの。洋画の吹き替えから始まって、ようやくそこまで上り詰めたわけじゃない。
声優としていい役を任されるようになって、自分の名前が付いたプロダクションを作って、そこで若い人たちを育てることができて、自分だってもっと大きな仕事をするようになって。「内海さんじゃなきゃダメ」と言ってもらえるのって役者冥利に尽きることですからね。彼はきっと、最高のところまで行くことができたんじゃないかしら。
ーー野村さんはいかがですか?
野村:私自信はね、声優としては運がよかっただけだと思ってるの。この歳まで声優としてみてもらえるのは、『ドラえもん』や『サザエさん』という長寿番組があったからだから。代表作だと言える仕事をもらえるのって、それだけで凄く恵まれていることなの。だからこそ、声優としていろんなお仕事をやらせてもらえて、とても楽しかったです。
たぶん、今の時代に新人として入っても私は上手くできないと思う。今の子たちって凄いでしょ。芝居だけじゃなくて、歌にダンスにとなんでも求められて。しかも、そこから頭一つ出さないといけないから。そうやって持っているもので勝負して、自分を売り込んでいかなくちゃいけないから大変よね。
ーー最後に、内海さんは5本の指に入る声優さんになれたと思いますか?
野村:あの声で、あのレベルの芝居ができる人はもう出てこないんじゃないかと思ってる。洋画の吹き替えでもアニメでも、彼が生きていたらどうやって演じていただろう、と考えてしまうこともあるの。もっと彼のためにいろんな企画をやらせてあげられたらよかったんだけど。
でも、そう思ってしまうということは、彼がこれ以上ないところにいけたからなのかなって。だから私は、内海さんは声優の5本の指に絶対に入っていると思っています。
[取材/武田結花 編集/石橋悠 構成/原直輝]
連載バックナンバー
映画『その声のあなたへ』作品情報
ストーリー
アニメイトタイムズで働く若手ライターの結花は、取材中に声優・内海賢二の存在を知る。彼に興味を持った結花は、取材企画を立ち上げて彼の声優仲間らへ取材を始める。この取材を通して彼女は、内海賢二という声優の人柄だけでなく、かつての声優業界、声優という仕事が今のような人気職業になるまでの歴史を知っていく。
スタッフ&キャスト
配給:ナカチカ、ティ・ジョイ
監督・脚本:榊原有佑
制作:and pictures
企画:株式会社CURIOUSCOPE
逢田梨香子、伊藤昌弘、内海賢太郎、勝杏里、かないみか、神谷明、柴田秀勝、杉山里穂、谷山紀章、戸田恵子、浪川大輔、野沢雅子、野村道子、羽佐間道夫、水樹奈々、三間雅文、山寺宏一、和氣あず未 (五十音順)
公式HP:sonokoe.com
公式Twitter:@SonoKoe_0930